ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

不本意な沈黙

・自分ひとりだけの問題ではなく、あるグループ内とか、組織からなる問題があったとき、個人としての想いと、公的な発言とが異なる場面というのは、ときどきある。

何でもかんでも、あったことを、起きた事態を、そのとおりに発表することが、その後良い方向に繋がる場合もあれば、宜しくない方向に進んでしまうのを懸念してわざと伏せておく、という場合もある。これも、経験上わかる。色んな職場や人間関係でそれを見てきた。

良かれと思おうが、なんだろうが、はっきりと相手に物言うことで傷つけてしまうこともあるだろうし、余計な心配を増やすことも、減らすことに繋がる場合もあるだろう。何処でもそんな事だらけで、きりがないんだけども。まあ、なるようにしかならんのだが。

 

直感的に「この場合は(私がその立場だったら)正直な発言をするけどなぁ。」と感じても、組織としてはそれを控える。ということになったとき、自分は「不本意な沈黙」を守ることになる。そしてその不本意な状況を組織の端っこで観察することになる。

自分には、能力や知恵、プレゼンテーションが未熟で沈黙するしかないのだ。だからお前には、学ぶことが、足らんことがまだまだたくさん有るんだぞ、と教えてもらってる。

 

そしてじぶんが、決定を下す立場にはないとき、公式な発言や内容に不本意な場合の、「自分の気持ちの納めかた」という作業を経験することになる。

特に「直感的な想い」というものは、自分の場合、言語化することが難しいのでなかなか骨が折れる。

今よりも若い年齢のときは、何日も何ヶ月もくすぶり考えて小さく反抗的(3番、5番がしんどい)になったり悶々としたり、またあるときは「もう自分には関係ないから」と無関心(4番に蓋する)を決め込むことでやり過ごした。

今は、えーと、そうだな、「自分の直感も大切にしつつ」「端的に決めつけない、投げ捨てない」ようにスタミナ(2番とか)がついてきてるし、視点をいくつも切り替える訓練(観察と考察の繰り返し。2番4番6番7番とか)に努めるようになったから、精神的な苦しさはほとんどない。

訓練をする機会を与えてもらった。と考えるようになったから、面白く付き合えてる。

 

・「沈黙」というものは、停滞寄りのこわい部分もあるんだけれど、クリエイティブな部分もあるな。としみじみ感じてる。