ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

影響と選択とその先

今朝の自分は、通勤途中にある横断歩道に向かって歩いていた。

駅方面から来たらしい女子高生が、横断歩道を渡りかけたが、赤信号だと気付いて再び後ろに下がった。

その弾みに、どーゆー原因か分からないけど背負っていたリュックが地面に落ちて、中に入っていた30枚くらいのレポート用紙が車道にばら撒かれてしまった。

 

休日の朝の8時、この地域は、駅前とは言え自動車は殆ど走っていない。でも、この時に1台の自動車が左折しようときてしまった。

車道に散ったレポート用紙が、タイヤの下敷きになりながら、自動車と地面の間の風圧で更に広範囲に散らかった。

女子高生は、慌てて近場にあるレポート用紙を拾ってたけど、風もあって、車道いっぱいにどんどん散らかっていった。

横断歩道の前には、30代くらいの女性が信号待ちをしていた。

後ろ姿しか見てないけど、彼女にも、このレポート用紙が車道に散る光景は見えていたとは思う。

 

自分は横断歩道に到着して、自動車が来ない事を確認しつつそのまま車道に散ったレポート用紙の回収をした。

同時に、信号待ちをしていた先ほどの女性も手伝ってくれた。

3人で集めたから、時間もかからなかった。ちょっと折れちゃったけど、全部集められてよかったね〜!と声をかけた。

その女子高生は何度もお礼とお詫びを言ってた。

集めたレポート用紙を彼女に渡す時に、彼女の慌ててる心臓のドキドキと、3番チャクラの辺りが重たくなってるのがトンレンで入ってきた。おお〜。

こーゆー場面なら、慌てるのは見りゃ分かるけど、実際に体感として彼女のテンションとか状態が自分にトレースされるので、便利ではある。

 

この場面に限らず、例えば相手や周りの人達が、怒りや悲しみや不安に溢れていたら、自分も影響を受けて、激怒したり泣いたり不安に感じたり、もしくはそうしたくない自分の心情とのギャップで違和感を感じて苦しかったりするだろう。

 

こんなことは、特別な事でも何でもなくて、皆んな毎日フツーに経験してる。

人が人と暮らしてる以上は、相手に共感したり影響を受けたり、反応するとゆーのは、自然なことだ。

赤ちゃんや子供の頃、予防接種の注射の列で、先に済んだ子の声を聴いて、怖くなったりしたよな。

歯医者さんの待合室で、キーン!って削る音が聞こえると、更に泣いてるのを聴いて自分もあーなっちゃうのか〜!って不安になったな。

大人になって、他店舗の棚卸しでピリピリしてる現場の立会人をした時も、嫌〜な気持ちで過ごしたな。

新卒の社員が、お客様と喧嘩して胸ぐら摑み合いの仲裁に入ったとき、吐きそうなくらい苦しかったな。

裁判で証人陳述したとき、被告から物凄い殺意を当てられてその夜一晩中高熱が出たっけ。

なーんか、今となっては懐かしいけど当時は辛かったなぁ。

 

もし自分の気力が弱くて、「トンレンによって、相手の状態が自分に入って来てるんだな。」と知らずにいたら、自分自身が慌てて、ドキドキしてるんだと思い込むだろうな。でも今は、気力は常に発電してるし、自分自身の状態ではないと知ってるから、「その時に何が起きてるけど、自分はどうしたいのか」の区別がついてるから、楽だ。

 

同じ場を共有するとき、そーゆー色んな立場や状況のなかで、自分が翻弄されるのとそうでないのとでは、「選択」が違ってくる。

誰かが怒ってたり悲しんでたり不安だったり慌ててるとき、質のいい「大丈夫だよ!」って声が聞こえたり、誰か1人でも落ち着いてそばにいてくれるとき、その先の現象が違ってくる場合もあるよな。

 

今日は朝からいい勉強になった。