ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

粒々から始まる③

手のひらの「氣の体感」、粒々しててピリッとくる感覚を大切にした。

自分でちゃんと出来てるかどうかの、目安となるものは、コレくらいしかなかったからな。もっと分かりやすくするには、どうすればいいかなぁ?と工夫も考えるようになった。

 

退陰符や頭頂開調息をすると、身体の圧迫感は消えて楽になったし、毎朝5時に起きて30分くらいベランダのクーラーの室外機の上に座って、呼吸法の練習をしてから仕事に出かける準備をして、電車の中で周りの人に気付かれない程度に呼吸法を練習して、職場について労働をすると、なんとゆーか、自分がしっかりしてる感じがした。

うまい言葉が浮かばないけど、「自分がしっかりしてる感じ」がするから、安心するし、気持ちにゆとりができた。

 

以前は日常的にやる事をこなすだけで精一杯だったから、1つ1つの問題をじっくり観察したり、考えたりするのもしてなかった。

でも、気持ちにゆとりがあって、気力も常に沸いてると、今までの自分より少しだけ観察したり考えたりすることができた。

「あ、この人はこんな感じだったのか。」とか「この場所はどんな感じで、これからどう変わるといいのか」とか「自分はなんでこの感情を抱いてたのか?」

周りを観て、場所を感じて、自分の気持ちを確認した。

 

呼吸法をすると、手のひらに「氣」が当たる。

嬉しいー!って浮かべると手のひらのパリパリ当たる感覚は強くなった。

嫌だなぁ〜。と悩んでる出来事を思い出すと手のひらのパリパリ当たる感覚は弱くなった。

感情の違いで、手のひらの体感は変化した。この段階では、まだ大まかな違いしか分からなかったけど、でも違うってことは分かった。

 

「氣」は「魂の湯気」のようなものです。

「魂」は「想いの本体」ですよ。

 

と教わった。

自分自身の魂の湯気かぁ。

自分の嬉しいとき、自分の嫌だなぁ〜ってとき、面白がってるとき、悲しいとき、美味しいなぁって喜んでるとき、手のひらに当たる粒々を感じながら「コレは自分の魂の湯気なんだな。」と思った。

 

「氣」って言葉に慣れてきたけど、今度は「魂」だ。日常会話に出てこないから、コレも抵抗があったけど、「想いの本体」って言葉ならしっくりくる。

粒々とした手のひらの体感は、自分の感情で、想いだ。

想いの粒々が沢山集まったやつを「魂」って呼ぶだけのことじゃん。って気づいた。

 

なんだ、そーか、当たり前のことだった。

氣、想いはどこにでもあって、集まったり離れたり、大きくなったり小さくなったり形を変えて、個々の関係にも作用して、いつだって変化して動いてるのか。って分かってくる。

 

分かって自分が変わると、周りの見えかたが違うから、どんどん面白いのが見つかってきた。

なんで今まで気付かなかったのかなぁ。ってぐらい、そこらへんの景色が面白いのだ。

 

「自分がしっかりしてる感じ」と「そこらへんの景色が面白い」は、毎日の練習でちょっとずつ積みあげた。

3つの呼吸法を生活に落とし込んで観察したり考えたりして、面白がって、積みあげたんだよな。

 

手のひらに当たる粒々は、すべての素で、始まる素なんだ。

この感覚を大切に持っている。