ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

残りもの

今日の練習は陰の氣の呼吸法で②③と8分くらいずつ形を作ってから、陽の氣の呼吸法、内丹法にかえて④をまわすのを、ゆっくり波立たせないようにしながら10分くらい続けた。

 

夕暮れの少しずつ暗くなる時間帯に、ベランダの窓の所に椅子を置いて座って、外を眺めながら練習した。

呼吸法をしながら外を眺めている筈だったのに、いつの間にか自然に半眼になってて「アレ?今ってどこを見つめてたのかなぁ?」と思い返すことがある。

半眼とは言え、外の景色は見えてるし、手前の窓ガラスも目の前にある。

 

対象となるものが、そこにあるのに、意識とゆーか、認識がない。あ、でもコレって誰でもある事だよな。

改めて、ふと我に帰ることとか、我を忘れて没頭しているとこととか、そーゆーオンオフみたいなのってのは、いったい何が操作してるんだろう。

とか考えながら、発電した体内の氣の内圧を下丹田に下げて納めて、頭頂開調息で頭部に残った氣を排出した。

 

そのあとは、部屋でうつ伏せの上体反らしみたいな姿勢でゴロゴロしながら、何故か鎌倉幕府から順を追って開国して明治時代になるまでをゆるゆると考えた。(←夏休みで、ヒマだから)

 

江戸幕府作んの、大変だったよなぁ。とか、関東平野で湿地帯だったのにねぇ。とか、それぞれの時代で食べ物がなくなった時は、「食べ物と意識してなかったモノ」を、どんな感じで「食べ物として意識」したのかなぁ。とか。

力のある者とそうでない者とか、略奪とか流行り病とか。自然災害とか。平和とか安泰とか停滞とか、変化とか。

 

1番いいところとか、それなりに有益、有利になる部分とゆーのは、既に誰かに手をつけられているものだ。そりゃあ、みんな欲しいんだから。

どんどん皆んなが手を付けることやモノがある中で、誰も見向きしないような、誰も手を付けないような、そーいった部分もいつだってある。

 

知恵や情熱で考えて行動して、その「残りもの」である部分や逆境を、誰もが欲しくなるようことや、誰かに役立つことに替えていった人々を、凄いなぁ。と考える。

コツコツとか辛抱強さとか、何代も続けて繋いで貰えたから出来たこととか。

面白いものや、綺麗なもの、洗練されたものや人々の生活が、「残りもの」の「誰もが見向きしないもの」「手を付けないもの」から生まれることもあるなぁ。と考える。

それが出来る可能性を人とゆーのは持ってるのか。凄いな。