ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

3段目の後半で得たこと

☆どちらかとゆーと、愉快な記事内容ではないです。でも、個人的には、いい学びになってます。

 

 

父は母が亡くなってから、威張り散らせる相手がいなくなったことで、その存在の大切さにやっと気づいたが、どうすればいいのか分からず「さみしい」とゆー思いに長年浸かっていた。

これといって趣味もなく、仕事にもやりがいを感じるような性格ではなかったから、父は一日中、居間でテレビをぼーっと見てるだけだった。

何度か入院するようになって、退院しても、体力もない、気力もない、楽しくない毎日の果て、父は無表情になった。

 

一緒に暮らす弟夫婦は、そんな父親に、最初のうちは同情していたが、徐々に息苦しさを感じていた。うんざりしていたから、休日には家から逃げるように子供を連れて弟夫婦たちは繁華街へ出かける。まあ、そらそうなるよな。

氣の視点からすれば、気力があるほうから、無い方へどんどん持っていかれちゃうんだから、疲れちゃう。

 

「うんざりしてる」ことが父に対して後ろめたいから、そそくさと出かける。それは父の視点からすれば、追い打ちをかけることになる。「どうせ俺なんか…」と余計に孤独感を増すことになる。

家で留守番してる間は、独りだし、誰かに聞いてもらえないから、後ろ向きな事をどんどん考えちゃう。

その辛さから離れるには、「感情を無くす、無表情」になることしかできなかった。

元来の性格で、狭い視野でしか見れず、知った者にしか威張れないから、どこか外の世界の何かを取り入れようなどとは考えもしない。外の世界が怖いのだ。たとえ、現状が嫌なのもでも、外の知らない世界よりは、彼にとっては今の状態のほうが、ずっと安心するのだ。

 

弟夫婦は、ストレス発散と、子供のおもちゃを兼ねると称して、クレーンゲームに熱中した。一時的には「うんざり」を忘れることができるけど、その程度で回復できるほど簡単なことじゃなかったのに、彼らは気付かない。なんとなくは、分かっていることなのに、気持ちに向き合わず見て見ぬ振りをし続けたのだ。

 

こんな感じのドロドロねろねろの発酵中の問題が、自分のところにまわってきた。はい、そらそーなるよな。

 

自分が久しぶりに実家に行った時に、居間のそこら中にあるクレーンゲームの景品、ごちゃごちゃしたプラスチックのキャラクター人形や玩具が、びっしりと隙間なく置いてあるのを見た時、ドン引きした。(←ドン引きって、リアルに氣が下がるんだね!)

 

「大量の小さな不満」が、色鮮やかな玩具の1つ1つに乗っかってるのだ。

な、なんつー、へヴィーなモン置いてるんだ!3番チャクラがムカムカして吐き気がする。

やっぱり「塵も積もれば山となるって、良いことも悪いこともなんだなぁ。」と思った。

 

自分は実家に帰るとき、直前まで呼吸法で気力を上げて、腹に納めていたから、すぐに体勢を整えることができた。

場の気配を、よく観察して、原因や正体を知ってしまえば、対処の仕方はいろいろできる。分かると楽になる。

 

自分の周りを自分の心地よい、いつもの氣で包む。徐々に範囲を広げ、停滞している氣を循環させて、場の空気を変えていく。

へヴィーなら細かく砕けばいいじゃない〜。砕いて軽くすればいいじゃない〜。(←真剣に考えてます。)

あらやだ、簡単に砕けるじゃない〜。ショボいわ〜。(←真剣に頑張ってます。)

 

「息苦しさ」を自分達で大事に抱えて離さないようになっていた彼らをみて、「これは長期戦になるなぁ。」と覚悟した。

 

続きます。