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ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

手放さない

自分は古式マスターヨーガと、武当派太極内丹法を京都にお住いの木村丈彦先生から教わっている。

 

先生は、月にいちど、都内にいらっしゃるから、その時には他の生徒さんがたと一緒にインド哲学や内丹哲学、呼吸法による氣の練功、人の感情や想い、仕事における感覚の使い方など、その時に合った講義や技術を教えて頂く。

文字で書くと、なんだか堅苦しい講義や重々しい会場の雰囲気を想像してしまうかもしれないけれど、もし、仕事一筋だった、自分にムチ打つようだった昔の自分がそれを見たら、はっきり言って「ユルい!緩すぎる!」って苛立つだろうなぁw

 

週に一度のペースで、skypeの音声を使って遠隔レッスンを受けている。

自分の場合、たったの1週間を過ごすうちにも、分からなかったことが分かるようになったり、そこからまた疑問が生まれて悩んだり、出来なかった事が出来るようになったり、出来ていた事が行き詰まってしまったりする。

関わる周りの人たちと、自分の心の中とが、常に行き交って物事は起きたり消えていったりする。

翌週の遠隔レッスンの時には、自分が考えてあたりをつけてる答えを、先生に質問して照らし合わせてみたり、行き詰まりのまま、呼吸法のレッスンを受けて、翌日になったら足がかりを見つけられたりする。

 

仕事帰りの電車の中で、沢山の人達が同じ車両に乗っている。

その中で、自分は静かに呼吸法をしたり内観したり周りを観察したりする。

 

ボーッと見ながらいつも思うんだ。

 

「いま走っているこの電車の中には、マスターヨーガや内丹法を操ったり、知ってたりするかたはいらっしゃるんだろうか?」

 

「このとき、この電車の中に、氣の技術を使って、何かを知ったり造ったり愉しんだりするかたはいらっしゃるんだろうか?」

 

「五感」に加えて、もうひとつの「氣の体感」があると、なんとゆーか、ひと味足りなかった食べ物が、とても美味しくなるように感じる。

感覚器官として足りなかった部分に、ちょうどピタッと収まることを前から知ってた様な感じがする。

 

自分は、呼吸法で氣の体感を得るのが好きなのだ。

絵にも音楽にも、食べ物にも、花にも場所にも、昔にもこれからにも、何処にでもそれが関わっているってのが体感とともに分かってくるのが好きなのだ。

嬉しいも楽しいも、悲しいも恥ずかしいも、ムカつくも、つまらないも面白いも、氣の体感を通して得るのが好きなのだ。

 

そして、このことを「好きなのだ」って感じてるのと同時に、自分の中でも全く同じように「好きなのだ」と想ってることが、自分と自分の中とでピタッと合わさるのが解る。

 

もし、このことを否定してしまったら、それは「自分を放棄する」ってことになる。それではこの世に産まれてきた意味が無くなってしまう。

 

だから自分は絶対に手放さないんだ〜。