だいぶボロくなったので処分されてしまった。
哀しかったけどそのバスタオルじゃなきゃダメだったから、新しいやつをあてがわれても興味はなくて、執着が薄まるといつの間にか寝る時にバスタオルが無くても眠れるようになっていた。
弟の分も含めて、ぬいぐるみは幾つか持っていて3、4歳頃からはお気に入りのシロクマのぬいぐるみを掴んで眠った。
ある時は弟と一緒にごっこ遊びをする時にシロクマになりきったり、大人から叱られたり1人でつまらない時にシロクマに話を聴いてもらっていた。
ぬいぐるみは、だんだんボサボサの毛並みになってきて、中身のスポンジと綿も偏りだして、シロクマとゆーよりも灰色になっていた。
だいぶ古くなって、首の所がプラプラ危なっかしげになっても全体を抱えるように持っていた。
大人から「汚ないし、ぬいぐるみは卒業!」と告知されて、廃棄する前日には弟と泣きながら何度も「ごめんね」と謝って布団の周りに全部を並べて眠った。アレは本当に苦しかった。
自分が楽しい時や、哀しいとき、怒ってる時や怖い時に、タオルだのぬいぐるみだのが手元にある事で気持ちを安心させてくれたんだと思う。
安心とゆー状態を得れるツールは、自分が成長するにつれ変化していった。
紙に絵を描くとか、工作するとか、本を読むとかギターを弾くとか。
誰かと一緒に話すこととか、心地よいと感じる場所に行くとか、物以外でも増えた。
ボロボロのタオルから始まった「安心ツール」は変化していくし、1つじゃなくて幾つあってもいいんだよな。
人によってはスポーツをしてる時だったり、家族と過ごしてる時だったり、好きな人や友達と会ってる時だったり、音楽や詩の一文や、写真やアクセサリーや御守りや、これ以外にも沢山、人の想いの数だけ「安心ツール」があるんだろう。
自分の場合、安心ツールがある時とゆーのは、「本当の自分」に向き合ってる時でもある。
自分自身が安心して素直になれるから、悩んだり、怒ったり悲しんだり、怖がったり泣いたり、笑ったり喜んだりしてる。
大人になって日々の暮らしで、色んな経験をしてきて、幾つもの「安心ツール」でも太刀打ち出来ないくらいダメージを受けたことがあった。追い詰められて身動きが取れなかった。
自分はひどく慌てて、もうダメだって思った時に、たった1つだけ持っていたのに気付いた。
それは「本当の自分」だった。
その翌年に呼吸法で氣を体感する事が出来るようになって、もう手放さないぞ。いつでも何処でも、持っていられるなんて、サイコーじゃないか!って思ったんだよな。
バスタオルの最終形態は氣でしたw
今日はその事を思いだしたので、ここに書いておく。