ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

こんなんなりました

古式マスターヨーガで練習してる時とゆーのは、その人の練習してる環境にもよると思うが自分のその状態は、落ち着いて打ち込めるし自身に素直になる。
単に吸ってー、吐いてー、に集中すればいいのだからやろうと思えば打ち込めるのだ。うまくやってやろうだとか、カッコつけて練習しようだとかそんなことどうでもいいから、とにかく吸って吐いてを繰り返し本気でやるだけだ。

そうやって単純な練習を「自分の意志で打ち込む」ようになると、その時の自分の意識とは異なる何かに気付くこともある。

練習を開始して直ぐに、自分ではない別の何かが内側から出てきたこともある。
さあ、練習するか!ってルンルンで始めたのに、見る見るうちに小さい子供のように泣き出すとか、後悔しながら顔に手を当てて嘆く女の人だとか、見事な模様の布地みたいなのが見えて懐かしくなったりだとか。
練習するぞ!なテンションの自分とは、明らかに異なる状態が、自分の中から出てくるから最初は驚いた。
氣塾で教わること自体が今まで知らなかったことばかりだったので、何か理由があるからそうなったんだろう位に余分をもたせて考えて観察をした。

夜中に眠いのに目が覚めて、ボーっとしてると身体が勝手に動き出したことがある。休日に昼寝でウトウトしてる時に、それが現在の自分の環境ではないのに「そーゆー事もあった」って思い出すことがある。
この場合も、あとでハッキリ目が覚めてから考える。実際に起きたような記憶のリアルで素朴さもある感覚なのだ。

これらを何ヶ月も経験しながら観察して、かつ日常で周りの人や物とのトンレンの練習を繰り返して分かってきたのは

・寝ぼけの意識レベル、変性意識、呼吸法をしてる時の意識レベルどれも同じような状態だとゆーこと。
この状態にあるとき、自分と、そうで無い別のものとを俯瞰して捉えることが出来るのと同時に、感情や身体の反応などは共有してる。
共有はするが翻弄される事はなく、それをしたくないなら状態を解くコントロールができる。

・自分の周りの人たちの状態はトンレンするぞ〜とか思ってなくても勝手にメモリはされる。
自分でも忘れてた小さい頃や、現在の自分ではない頃などもメモリされてる。但し感情が普段より動くとか、対象に良かれ悪しかれ関心を持っている場合のみ。
関心のレベルは、例えばレジのお姉さんに「はい、どーも。」って言いながらお釣り貰う時くらいの関心かそれ以上。

・記憶、思い出は氣の情報で、嬉しいだの哀しいだの許せないだのとゆー気持ちと五感の感覚で残るが、自分の場合は内外の体感(パントマイム状態になる)が強く、視覚や聴覚はあるにはあるが、弱い。
気持ちが先にあり、五感はそれを再現する為の説明用だったり後に現れる。だがコレは現在の自分の場合はそうだとゆーだけ。


「キーレーいだな〜っ!」って気持ちが最初に起きて、それが何を指してるのか?形や状態を五感で捉えるから「きれいな星」とか、「葉っぱや土の匂いがする屋外から見上げてる」とか分かる。

「哀しいー‼︎どうしてー⁉︎」って後悔と混乱するような気持ちが最初に起きて、何が哀しんだろう?って問うことで子供がー!とか赤ちゃんがー!とか言葉が出てくる。額や頬に掌を当てながら嘆く様は、自分にはないふるまいだから、「誰なのか分からないけど自分の中に居て、とても哀しくて気の毒だなぁ、このひと。」と第三者みたいに考える。

2歳くらいの自分の思い出が出てきたときは呼吸法の練習中だった。
最初誰なのか分からないけど実際目の前とゆーか、自分の中に何がが居てそれがとても気の毒だから「どうした?何があったの?」って問いながら辛抱強く想い出を聴いた。聴きながらどうやらコレは幼い頃の自分っぽいぞ?へぇー。こんな事を記憶してたのかぁ。と思った。

その時の内容を今の自分と昔の記憶の自分とでシェアして、狭かった視野と思考が解消され、さんざん話して昔の自分が満足すると今の自分の味方になってくれる。

味方になると、現在に至るまで苦手な物事に対して苦ではなくなり乗り越えようとする気持ち(氣)としてあらわれる。コレはへぇーっ!って感心した。
こーゆーのをインナーチャイルドの解放と言っていいのかどうか分からないが。

数日前の問題から数年前のこと、小さい頃のわだかまりも全て記憶として氣の情報として残ってるんだなぁ。と分かってきて、ゆうがたヨクサルではない時代の自分の記憶の断片も同様に再現して聴いて話す事が出来てくると、その時代の自分も味方になってくれる。コレもへぇー!って面白い。
ちょっと前だろうが、すごく前だろうが、コレから後の自分だろうが、自分は自分であり、想いの連続帯として点を繋げていくだけだってのも分かってきた。
個としてコレだけの連続帯があり、それぞれ周りの人たちや物事も同様なのだから、この世はなんて網目の細やかなぎうぎうな場だろう。って面白くなる。

身体はひとりなのに、中身はひとりじゃないからとても賑やかだ。先天の性格と後天の性格とゆーのがどんな感じで、やがては統合してくとゆー工程も分かってきた。

中身とは違う、別の存在もあるよ。

コレは上とか後ろとか人や門派によって表現は様々だけど、そもそも上下前後左右は自分には関心がなくて、「過去も含めた自身の意識ではない、別の意識或いは氣」と今は考えてる。体感する箇所や反応もそれ用で起きる。

ちなみにそこらに転がってる単なる念とか、低級な思惑だとかそーゆーのではない感じはある。その辺りの意識は、自分で制御するのが大事で、必要ない氣は受けいれないし興味ない。あってもいいけど、つまらなくてダサい氣には興味ないのだ。

自分が許可してる存在の氣は、結構ナイスなタイミングでアドバイスをくれたり見せたり、励まして貰ったり、諭してくれるから凄い。
こんなグダグダな自分の担当なんかしてくれて、なにが愉しいかなぁ?と思った事もあるけれどその度に「したいからしてる。」ってのが感じられて、それがサッパリと垢抜けててカッコいいと思える感覚がある。
だから自分はこんな感じになりたいなぁ。って憧れながら遥か遠くに在るのにすぐ近いこの氣と、自分の内側の仲間と、身の回りの氣と地球さんと共に暮らしてる。
ひたすら吸ってー、吐いてー、を本気でやってきたらこんなんなりました。

「それと共に暮らす。」ってのがアイデンティティーとゆうがたヨクサルでやる事のうちのひとつ。