ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

有機物では怒れない

朝、ベランダでマスターヨーガ②④⑦→退陰符→内丹法②④⑦→退陰符を練習する。

抽象度を上げて物事を捉えると、結構冷静に考える事が出来る。

ゆうがたヨクサルではなくて、日本人とか、人間だとか、哺乳類だとか、有機物とか。
リンゴではなくて、果物とか、植物だとか、有機物とか。
有機物とかになってくると、もー、どーでも良くなってくるし、むしろ感情的になるほうが難しいよな。

あんまり抽象度を上げ過ぎて、問題点から離れてしまうと意味ないんだけど、抽象度の、どの段階でなら腹が立たずに感情的にならないで済むとか、どの段階だとイメージし易く、リアルに自分の事のように考えられるなとか、これ以上リアルに感じると、囚われてしまうな、とかを自分で分かってくると面白い。

あと、他人事のように傍観してる自分と、相手を自分の事の様に感じてる場合とを同時に保てる様になると、自分の口から語る言葉が不思議に感じる時があるのだ。

職場で話をしてる時に、「あれ?自分なんかいー事話してるなぁ。」と、何も計算せずにスラスラと話しが出来て、誰かが自分に言わせてる感を体験する時がある。相手に話してるのに、その言葉は自分自身に分からせてるような、そんな状態。

相手によるけど、時々、「あ、この人今、言わされてるなぁー。」と気づく時がある。普段そんな言い方をしないような人でも、そーゆーのある。

マスターヨーガや内丹法を練習してる時は、呼吸法により体内に氣が満ちてくると、チャクラもブンブン廻るし、両手もピリピリするし、気持ちも落ち着いてくる。気力が上がってる状態である。

自分の身体なんだけど、ちょっとそこからはみ出るような、でも呼吸と伴にそこに居るような、他人事と自分の事とを同時に保ってる状態に結構似てる。

マスターヨーガの毎日練習を続けて慣れてきて、数ヶ月程で「ゆうがたヨクサル」を観てる自分が居た。ゆうがたヨクサルの体調にあった食事を作るし、ゆうがたヨクサルの苦手な行為を励ましたり、一緒に遊ぶようになった。

少しずつ知らなかった者同士が仲良しになってきた。
どっちが言った言葉なのか分からない時があると一旦アレ?と思うけど、それがごもっともですなー!と納得出来ちゃうからどっちが言ったとかどーでも良くなってる。

抽象度を上げたり、自他ともに他人事のように距離を離してみると、思いがけずアイディアとか、気付きとかがあったよー。ってことを述べてみた。