ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

行くしかない

青空文庫で見つけた河口慧海の「チベット旅行記」を読み終えた。長かった〜!

 

今の自分からすれば、明治の時代に日本から海外へ出立すること自体が、凄いことなんだけど、船で神戸港からインドに向かって、しばらくはチベット語を勉強しつつ滞在してネパールに行く。当時のチベット鎖国してたから正規ルートでは入国できない。だから関所を通らずに、人が殆ど使わない険しいルートを歩いている。

 

腰より深い川を渡るとき、服脱いで頭に荷物のせて身を切るような冷たさの川の中にザブザブ入ってくわ、盗賊にあって、コンパスもなく、水も食料もなくなって、靴はぼろぼろ、険しい山を越えるわ、

遊牧民のキャンプに、たまたま巡り合って一夜の宿を求めても拒否されるわ、猛吹雪のなか荷物を背負った羊たちと一緒にへとへとになって、疲れ切って歩けなくなって、休めそうな岩陰もない地面に一晩座るわ、吐血や体調不良で動けなくなったりしながら、休めるときはしっかり休んで、とにかく徒歩でどんどん行くのだ。行くしかないんだけども。

洞窟で修行してる高僧に会いに行って話ししたり、巡礼の人たちと一時的に同行したり、美しい湖や山脈を歩いて観に行ったり通り越してまた歩く。

食べ物は麦こがしとヤクのバター、干しぶどうや干アンズ、水がないときは雪と麦こがしを混ぜ合わせて食べる。毎日何キロも登ったり降りたり歩いてるのに、これだけしか食べていないのが驚きだ。

 

このかたは、なにか迷ったり分からなかったり困ることが起きると、いつも瞑想をしてる。

どっちの方角に行けばいいのか?とか、どの選択をするといいのか?とか、空腹や寒さやその他もろもろの感情を和らげるように瞑想してる。彼の行なう実践的な瞑想は、どんなだったのかなぁ、彼をトンレンしたらどんな感じかなぁ。と思う。

 

チベットに入国していろんな聖地を見て歩いて、やっとラサに着くまでの所が読んでていちばん面白かった。

「仏教を学びたい!」とゆー想いだけで、ここまでできるのか。と思う。関連する人々の縁、出来事のタイミングひとつとっても、全てが必然だったかのように現象が進むから読んでてスッキリした。

目の前も後ろも、左右も真っ暗で、どこへむかへばいいのか分からない自分にとって、励みになるような本だった。

 

それがこれをたらしめる

午後から、上野の森美術館で開催中の「エッシャー展」に行ってきた。向かう電車の中で陰の呼吸法②→③→退陰符の繰り返しを練習する。

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版画特有のパキパキした輪郭や、白と黒のコントラスト、木版、エッチングなど眺めてるだけで面白い。

絵の大きさは、だいたいA4サイズ前後やポストカード、大きくてもポスターぐらいしかないから、ひとつの作品を見るとなると、当然2〜3人くらいでその場が埋まる。

なんせエッシャーですから、どの作品もカッコいいし、不思議な絵も多い。魚やトカゲや鳥や図形がきっちり敷き詰められていて、無限に広がる。不思議で面白いから心地いい。

うまく説明できないんだけれど、形と形の隙間もまた、形で埋めてある。白が黒を引き立て存在させているし、黒が白を存在させてる。網目の穴が網の糸によって存在するみたいに。そこにあるのに無いし、無いのに存在してるから、永遠で無限でぎうぎうに詰まってるので「あー、いいねぇ。そうだよねぇ。」って感じる。

 

版画を作る前の、鉛筆書きの下絵のようなものや木の板を彫った版木版の展示もあった。

会場に入ってすぐ、エッシャーの生まれてからなくなるまでのおおまかな年表が壁に貼ってあった。1972年に彼はこの世を去り、自分は生まれてきた。これを見て、のっけからジーンとなったが、ここがピークでもあった。

あとは作品を観てはカッコいい!かわいい!欲しい!を心の中で連呼するばかりだったから。

作品の端っこに「自分で刷りました〜。」ってサインが書いてあるんだけど、そこばかり目がいく。作品が目の前にあって、自分はその絵を観てはいるんだけど、普段、美術鑑賞するときとは少し違う感覚だった。この作品をイメージして作ってるときの彼のことばかり考えてたから。

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図録を買ったら紙質が好みのやつで嬉しかった。

 

美術館を出てからは、JR上野駅構内にある「T'sたんたん」エキュート上野店さんに向かった。さあRAMENですよ。飲食店で食べるラーメン、なん年ぶりかね。こちらのお店では、動物性の材料を使わないラーメンや、ベジ担々麺や大豆ミートの生姜焼き、カレーなどが楽しめます。

 

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湯葉入りスーラータンメンとベジ餃子

 

お店で食べるラーメンてのは、自分の感覚だと結構熱い(ラーメンに限らずオルゾーラテとか豆乳ココアも熱いから用心してる)んだけど、このラーメンは、ちょうどいい温度とゆーか、とろみがあるからだいぶ警戒してたが、するする食べれた。酸っぱ辛いスープの麺て初めて食べた。

 

エッシャー展は7月29日まで上野の森美術館で開催です。会場の所々に休憩する椅子が馬の形みたいでかわいいのと、階段や壁の所々にエッシャー作品のキャラクターが、ステッカーで貼ってあるのが個人的にツボだった。

 

 

 

あんてい

・今日も21時から京都の木村先生とSkypeで遠隔レッスンを受けた。現在、5段目3番チャクラの期間で、安定第一、安定、あんてい、とにかく安定〜っ!しつこいぐらい安定を図ってる。氣の質と量も充分にあるこれらを安定させるのだ。安定って文字がゲシュタルト崩壊するくらい努めても毎日色んなことおきるし、その度、自分の氣の質と加減を試される。いまはそのような期間です。

 

Skypeのアプリを立ち上げて、レッスンの準備をするときは、これといってなにも浮かんでなかったり、ぜーんぜん考えがまとまらなかったこの数日の出来事が、プリッと浮かんだりまとまったりする。

だからレッスンの始まる前の20分くらいとゆーのは、普段の思考や時間が濃度を増して現れるからありがたい。

 

レッスンが始まるときに、そのプリッと浮かんだりまとまった事柄を、自分の稚拙な表現で先生に話す。そこからインド哲学や太極理論や武術用語やらを知ったり教わることにつながる。

日常生活の中で起きたアレコレにどう対処してどんな感想をもったか。を抽象度をあげつつ話すと、太極理論や哲学や武術の動作や用語に共通するものが見つかる。

自分が体験してきた生活のことと、理論や哲学や用語が重なって、親近感と興味が湧いてナルホド。と思う。

 

たとえば「沾粘連隋せんねんれんずい」も先生から解説を受けると、(←今度お会いしたとき、型を見せてくれるって〜)。「押さば回れ、引かば斜めに出よ」が日常の自分の振る舞いと重なって、それをする際の怖さや覚悟や、変化を観察する自分のことも、どんどん見えてくる。

 

 

・自分の中の、経験したことや考えてたかたちが、うまい具合に「言葉」としてすでに存在していると、見つけやすいとゆーか、手掛かり足がかりになるとゆーか、探しやすくなるような、そんな感じもある。

 

・音楽を楽譜に書き残しておいて、未来に誰ががそれを眺めながら、再び音で現すことができるのは便利だ。

お菓子や料理のレシピを書き残したり口伝で繋いであると、未来に誰ががそれを聴いたり眺めながら、再び現すことができるのも楽しいことだ。

それらを解読するための様々なツールや条件やなんやらは必要かもしれないけれど、なんかすごくいいぞ。と、今更ながら思った。

自分が教わってる古式マスターヨーガや太極内丹法も、口伝でずーっと繋いでこの現在で、Skypeで木村先生から自分へ色んな言葉と体感で受けてる。こーれーは、なんかすごくいいぞ。と、今更ながら面白く感じてる。

 

 

 

 

なんで起きられるの?

職場の3時休憩のときは、資材置き場の隅っこでパイプ椅子に座ってハンカチを顔にのせて棚にもたれながらジッと休むことが多い。

離れたところで仕事してる音が聞こえて、休憩室からは笑い声や足跡なんかも聞こえるなかで、ぼんやり考えるでもなくぼーっとしてると、そのうち考えごとや連想される風景やらなんらかが浮かぶ。

頭の中で浮かんでる風景やら出来事がスムーズに進行してちょうどいい感じになってきたところで目覚ましのアラームが鳴って、休憩時間が終了したことに気がつく。

このとき、浅い眠りかけの状態で、夢を見始めてた感覚がある。

ポケットに入れた携帯電話のアラームが遠くで鳴ってて、それが自分が起きるための合図なんだっけ、と思い出して目がさめる。

コレは朝、目がさめるときのアラームでも、やっぱり同じように起きるのと同じ状態。

 

夢を見てて、何かの音や振動や明るさなどの変化があって、それを夢うつつのなかで、「今から起きるんだな。」と、どうしてきづくんだろうと、不思議に感じる。

子供の頃から、起きなさーい!って起こされるのが習慣になってるから意識が戻るのか、それとも生物学てきな何かで意識が引き戻されるのか、よくわからないけれど。

 

たまに、起きなきゃー!と思ってても、眠くて起きられず、また意識が夢の中に潜っていき、その夢の中で遊んだり怖がったり、何かしらのことをしてるときがある。目が覚めて起きたつもりで、実際はまだ布団の中で夢見てた。ってこともある。

 

眠りの世界では、リアルに動いて遊んで、笑ったり泣いたり怖がったり、怒ったり、喋れない英語はなしたり、(現実では)運転できない自動車でハンドル握ってすごいスピードで壁を走ってたり、空を飛んでたり、切腹して痛いのに誰も気づいてなかったり、変な夢の中で、フツーになにかしてる。

その途中で、「起きなさーい!」のアラームやら振動やら明るさやらを感じて、あ、コレは夢で起きなきゃいけないんだな。って、なんで思うんだろう。

起きる。という指示は、自分自身の意識でしてるはずなんだけど、こうやっていまブログを入力してる自分の意識とは、また別の違う意識って感じだ。顕在と潜在ってことなのかもしれないけど、とにかく「起きなきゃ!」とか「こうしなきゃ!」とかでスワーッ!と切り替えができるのはあらためて考えると面白いことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「嬉しい」の氣

先週はバイトの面接があって、数分だけ自分も同席した。今現在、人手不足で忙しいので数分でも時間が惜しい。

面接を受けてる女性をパッと見たとき、自分の中で「これだけはお互いに了解しといたほうが、あとあと面倒なことにならないよ」って内容が直感的におりてきたから、そのことについて、自分の経験も交えて話した。

面接のあと、ご家族の体調がよくないので休みが多くなってしまう可能性があり、今回は辞退させていただきます。と連絡があった。

面接のとき、自分が話したことに関連したことだったから、「あ、面接のときの直感を説明のなかで話せてよかったな。」と思った。

 

その数日後、ご家族の体調が好転したので、大丈夫そうだしやっぱりそちらで働きたいんです。と連絡があった。そーか、そーか。よかったね。と皆んなでミーティングや準備を進めた。

 

今日から採用になって、自分が彼女に仕事の説明をするときに「お母様の体調、よくなったんですねー。」と言ったら、「ええ、ほんと安心して。ここで働きたかったからよかったです!」と彼女が言ったとき、彼女の氣(想い)が伝わってきた。

「嬉しい〜!」と胸の奥から外側に向かって、サーっと氣が出てるのだ。それを自分はトンレンで体感として受けたから、自分の胸のところから両腕、胴体内にジーンと暖かくて明るくて、嬉しい感覚が広がる。これはね、いつもそうなんだけど、とてもいいものだ。

 

あー、このかたは、本当にご家族のこと心配なさってたんだな。と思った。そんで、初日で緊張するであろうこの場所で、素直に気持ちを表してくれてるのが、とてもいいなー。と思った。

トンレンで、彼女の氣(想い)を受けてまだ2、3分しか経ってないのに何時間とか数日経ったあとぐらいの親近感が湧く。コレは「トンレンあるあるパターン」のひとつ。

 

自分の場合は、こーやって日常生活の中で、トンレンで相手のこと、氣のことを気付いていく。傍目から見たらよくありがちな普通の日常のワンシーンなのに、氣の視点や体感があることで、それはもう凄い勉強になってる。

 

 

 

 

 

問うとき

子供の頃は大人たちに「あれはなに?」「どうしてこうなの?」「それはどうなるの?」ときくと返事の中に答えのようなものがあった。

そのうち成長してくると、自分の心のなかで「あれはなんだ?」「どうしてこうなんだ?」「それはどうなるだろうか?」と想像してなんとなくの答えのようなものができて、また大人たちにも聞いてみて、自分の心のなかで想像したのと違ってたり同じだったりするようになる。

もっと成長してくると反抗期みたいになって、大人たちにきくのが嫌になって自分だけのなかで決めつけたりするようになった。心のなかには答えようなものらしき形はあるけれど、はっきりとした形ではないし何かの拍子に揺らぐから、何度も何度も考えたり形をこしらえる。

誰かに問いたくても、自分だけで見つけなくてはならないとき、それまでの自分や周りの人たちの答えや考えでなんとか踏ん張ってきた。

 

自分が大人たちと呼ばれる年齢になって、周りの人に「あれはなに?」「どうしてこうなの?」「それはどうなるの?」ときいてみると、半分くらいの人たちは困ったように「え〜?そんなこと考えたこともなかった。」と笑ったり、不愉快そうになる。ごめん。困らせるつもりじゃないんだ。一緒に話したかっただけなんだよな。ごめん。(あ、でもよくよく思い出してみると、子供のころに質問した大人たちも困ったような不愉快そうな、怒り出す場合もあったなー)

って、ことが増えてくと、表面的な当たり障りのない会話になってくる。さみしいような、楽ちんのような、つまらないような状態が続く。

 

でももう半分くらいの人たちは、自身の言葉で自身の考えを示してくれる。場合によってはわからないなりに、素敵だな、と感じられる言いまわしで応えてくれる。

その返事が自分の心のなかで浮かんだものと違っていようと同じだろうと、なんであれそのような人たちが、半分くらいはいらっしゃるのだ。それがこの数年のうちに、ちょっとずつ増えてるのが嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流れがあって、気配もある

ここ数週間、積み重なってる複数の案件がある。

それぞれの原因は別々のものだけど、それぞれが関係してる内容なので、やってもやっても片付かない。自分が主役じゃなくて、縁の下で支える役だから、対象の都合で状況が変化するのだ。

最初のうちは「なにぃ〜⁈じゃあペースアップして片付けとこう。」とモリモリやってたんだけど、次々と来る悩ましい報告や連絡、物資の不足、人員の不足、時間の不足が極まる。

 

昔の自分なら、完璧主義が顔出して、ここら辺でイライラ通り越して、もうだめだーと落ち込んだり誰かに八つ当たりとかやけ食いとか、現実逃避してたと思う。

でも、最近のじぶんは「現象の流れ」とゆーか、変化の気配を感じれるのでそうはならない。仕事も家族のことも自分のことも含めて、どんどん積み重なってくのをじっと観察しながら、8割くらいコツコツやれるだけやってバランス取る。呼吸法してるから感情もフラットに近いので楽だ。

 

「今がピーク(正念場)だな。」と感じると、そこから先の方向性と作業のイメージが頭と体(行動)でカチカチはまって整ってくる。コレはたぶん、自然に瞑想状態になってて、必要な考えかたができてるんだと思う。

昨日は思わず一緒に仕事してる同僚に「だいぶ貯まってきたからもうすぐ状況が変化するよ。」と話した。

 

今日の午後に連絡が来て、数件の問題に手をつけていいぞとゴーサインがでる。

はい、キターッ‼︎皆んなちょっと喜びだす。

でも、ここからすぐに楽になる訳ではない。少しずつ、段階を追って片付けられてく。(←という予定)

これまた昔の自分なら、この「一歩前進したらまた後退」の期間にドスーンと気持ちが揺さぶられたんだけど、それも引っ掛け問題(試されてる)の分かってるから誘いには乗らない。

さすがゆうがたヨクサル、年季の入ったネガティブ思考よ。でもこれがヘルシーなテクニックとして、こんなときに活かされる。

 

そんな毎日に居るじぶんが、この体験に慣れ親しんで、いったい何をどうしようとゆーのか。

そこはわからんな、さっぱりわからん。

でも現象の浮き沈みとか気配の変化を感じれるとゆーのは面白いからまあいいか。