ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

飲める

自分がいま、数々の想いのひとつとして、感覚的に抱えている質感や気配を、うまい言葉で代弁してくれてるな。ってことがある。

 

いつだったか、読んだときにメモして置いた言葉はいくつもある。時々、ふとそのメモを開いて読み返すと、心が震えて体はジーンと痺れ、もっともっとと、ゴクゴク飲み干すようにその文字を追ってる自分がいる。

 

今朝もそんな感じで↓

 

希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。

 


魯迅 「故郷」より

潜水

子供のころは、市民プールに連れて行ってもらった。

 

茨城県にある母方の実家には毎年1、2週間滞在した。いつもと違う市民プールに行き、弟と2人でバチャバチャ泳いだりふざけたりする。プールサイドからは、通路を挟んで壁側に向かって少しずつコンクリート製の階段状になってるところがあって、そこには祖母が日傘を差して座っていて自分達を見てる。時々手を振ってくれる。

今思えば、夏の日差しで日陰もないコンクリート製の階段状のところで、祖母は自分達を見てくれてたのだ。さぞかし暑かっただろうと思うが、いつも自分たちを見てくれてたんだよな。

 

横須賀の実家では、小さかったころは親が市民プールに連れて行ってくれたけど、小学生の3、4年生くらいになると、友達同士で行った。

5、6年生になると、友達と行くときもあったけど、大抵はひとりで週3くらい泳ぎに行った。父の運転で市民プールに行って、数時間後にまた迎えに来てもらうのだ。

 

2メートルも間隔がないほど子供だらけのプールだから、すぐぶつかっちゃうのでガシガシ泳ぎまくることは出来ない。だから、ひとりでプールに行ったときは、「潜水」をする。

息を止めて、水の中に潜ると、水色でキラキラ揺らめいて、ゴボゴボしてるのにシーンと静かに感じて、音の聴こえ方がいつもと違うし、皮膚にあたる泡や水圧を感じるのが好きだった。楽しいからテンションも上がってくる。

でも、テンション上がるとあまり長くは潜れない、水中の世界に長くいられない。

とゆーことに途中から気付いて、「潜るときは静かにする」とか「いま息止めてるー、と考えると余計に苦しくなるからなにも考えない」とか「水中は、はっきり見るんじゃなくて、(焦点定めずに)ぼんやりする」とか工夫をしだす。←行者かよ

 

いい感じに、むーん。と静かに潜ってるが、哀しいかなここは混雑する子供だらけの市民プール。時々、泳いでるコの水を蹴る足が、自分の胴体や顔にゴーンっ!と当たることもある。

そのとたん、静寂の世界は消えて、痛みとムカッ腹で水上に浮き上がるのだ。

何回も繰り返し潜っては、ぶつかったりする。皆んなはワイワイ楽しく泳いだり遊んだりしてるんだから、距離を保って回避することもなく、じっと動かずにいるやつがいれば、そらぶつかってもしかたないよな。

 

満足するまでプールで潜ったあとは、父の自動車が迎えに来るまでの時間、棒アイスか凍らせたミニカップのゼリーか、ベビースターカップラーメン食べるのが楽しみだった。

プール上がりの体は、軽いような、外気の温度との違いでぽわーっと何かに包まってるような感覚だった。

 

潜ってるときの「なにも考えないようにしながら水中を感じる」ってやつは、サイコーに気分がよかった。

 

 

 

 

 

 

エンドレスノット

続きです。

神保町で開催された東京気塾を終えてから電車で移動して、JR神田駅西口からすぐのインド料理「アーンドラダバ」さんに行った。

 

ゴールデンウィークのころ、チベットフェスティバルで知り合ったMさんとKさん。

Kさんはチベット仏教を学んでいらっしゃるんだけど、以前、インドに「アガスティアの葉」を調べてもらいに行ったことがあるんです。とゆーことで、興味津々のMさんはその時の話を伺うことになった↓

 

チベットフェスティバルの最終日に、Kさんと会うので、ゆうがたヨクサルさんもご一緒にお茶でもいかがですか?とお誘い頂いた。その時の記事はこちら

砂曼荼羅、トンレン、出逢い - ベジるビバる

 

ほぼ初対面どうしの4人が、チベットフェスティバルのことや呼吸法のことや、南インドカレーやアガスティアの葉のことで盛り上がり、次回はカレー食べながら話しましょう!となり、ラインとメールでやりとりするうちに「アガスティアの葉の集まり」が長ったらしいから「アガ会」と呼ぶようになり現在に至る。

今回は7人のメンバーが集まった。

 

こちらのお店は、Kさんたちのお勧めとのことだったので楽しみだった。皆さんはミールスビリヤニを注文しておられた。

自分が注文したのはキングフィッシャーのビールと「ニルギリ・ベジ・コルマ(ミントの葉っぱ、香菜、ココナッツの野菜カレー。どこまでもひたすらにクリーミーでまろやか)」にプーリー(全粒粉の生地を揚げたやつ)

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薄緑色のカレーとプーリーが運ばれ、「なんですかっ?それは!」と注目のなか、ひとくち食べてみた。

た、たいへん美味しゅうございます…

旨かったから思わず丁寧な言葉遣いになってもーた。

 

味はカレーなんだけどとてもまろやか。クミンシードとミントと香菜の香りが後からフワッとしてすごくいい。ミントやパクチーが苦手なひとにはアレだけど、味見してもらったアガ会の皆さんからは、旨い!さわやか!おいしくて知らない味がする!などと高評価だった。

 

食後に「パヤサム」

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極細麺、カシューナッツ 、レーズン、タピオカなどが入った甘くて冷たいデザート。カルダモンのいい香りがする。

 

 

今回のアガ会では、サウナ好きのかたがいらして、サウナと氣の巡りについてとか、10日間のヴィッパサナー瞑想をやったときのことや、インドの寺院のことや、アガスティアの葉を実際に行ったときの話など、それぞれの行ってみた、やってみた経験談などで盛り上がった。

 

どうしてそれをなさったのか。とか、はじめのきっかけはどんな風だったのか?など、日々の暮らしの流れに、ふっと入り込んでるきっかけや縁などを、ご自身の言葉で語られ、聴くのは面白かった。

 

 

帰りの電車の中で、Mさんと途中まで一緒に帰ったんだけど、そのときに手渡して下さったのがコレ。

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チベットでは「ガウ」と呼ばれ、護符や経典などを収納、携帯できる容れ物。紐を通してアクセサリーのように身につけることもできる。

 

チベットフェスティバルでいただいた、砂曼荼羅の砂を収納するのによろしかったらどうぞ!とプレゼントして下さったのだ。なんと。

自分は、知り会いとかにひと通り砂見せ終えたら、川に流すか風が強いときにでも撒くか!って思ってたので「ゆうがたヨクサルさん、少しくらいは砂残しておけばいいじゃないですか!」と、Mさんが気遣って下さったのだ。

ガウの表面にあるマークは、私の好きな「全てのものごとは繋がりあっている」ことを示してるそうだ。とても嬉しかった。ありがとうございました。

 

 

 

 

やる気のジャケット

昨日は神保町で開催する東京気塾に行ってきた。向かう電車の中で内丹法②で発電してから退陰符でお腹に納める。そのあと4段目の陰の呼吸法②④→退陰符→会場のアシストがうまくいくように頭の中を整理した。自分の中の「こうするぞ!」と、自分の心の奥との想いが一致したので、胸のところがスッと広がって軽くなる。身体がやる気で包まれる。まるで透明のジャケット羽織ってるみたいだ。

 

今回は京都の大学生、2名が参加下さった。

始めのトンレンの練習をしたときから受け入れ体制が整ってたので氣の循環もスムーズだった。なんだかお二人とも、楽しそうにトンレンして下さったのでこちらも嬉しかった。

トンレンで体感をもっと増やしたいとか、周りから影響を受けないようにとか、雰囲気に流されないようにするために、まずは呼吸法で自分の氣を発電して体に充満しておくといいので、これからも呼吸法をコツコツと楽しみながら練習してくださると嬉しいな〜!って思った。

そんで、トンレンとか日々の生活の中で発見とかあったらまた今度おはなし聴かせて下さいねーっ!

 

休憩を挟みつつ、忠臣さんが氣の体感のバリエーションとして次々とお題を出してくる。頭頂開調息を抑え込むやつとか、「海をイメージして受けてがそれをどんな感じか述べる」とか「祭りイメージ」とか。

自分は映像視覚情報は苦手なんだ。

ナカジさんとのトンレンで「祭り」をイメージしてもらったときは、こちらから読み取りに行く感じでトンレンする。そんで、浮かんだらモタモタしないですぐに言ってみる。

祭り囃子とゆーか、太鼓と笛と人混み。って感じがして騒がしい祭りか?昼か夜かどっち?かっつーと、暗くて灯が何個もあったから夜の祭りか?とか確認してく。

交替して自分が祭りイメージの送り手になったときは、開拓時代とかの秋とかにやる「収穫祭」をイメージした。畑で採れた一番上等のかぼちゃやジャガイモの品評会。子豚の重さ当てコーナー。ジャムやパイの品評会、5セントのレモネード売り。個人的には超楽しいであろう祭りなのだが、ナカジさんに「正解は収穫祭でしたー!」といったらちょっとぽかーんとしててたのでなんでかなぁ?と思った。

 

他にも何人かと皆さんとトンレンして、ふっと感じた印象があると、唐突すぎやしないか?とも思うんだけど、まずはお伝えする。ギョッとしながら「そうです。さっき先生にも同じこと言われました。」とおっしゃるので、なるほどー。と思う。受け手側の自分の体感と、相手の方の言葉を照らし合わせる作業はとてもいい勉強になる。

その後の読み取れた印象をもとに、相手にとって有用な情報や練習方法やら何やらを伝える。とゆーのが難しい。自分ならどうするか?ってのも考えるけど、起点は相手なのだから、このかたにとって有用なもの。をと、ここが一番気力使う。

 

木村先生の施術とセッションが終わってから講義が始まり、全体の雰囲気をチェックしつつ終了4分前に後ろの忠臣さんに合図する。その後、フツーのと、ふざけポーズとで記念撮影をする。ふざけポーズのバリエーションが増えてきたように感じるのは、参加者の皆さんが増えてきたからかなぁ。と面白くなった。参加下さった皆さん、ありがとうございました。

 

終了後は打ち上げに向かう皆さんとお別れして、次の予定の「アガ会」に行くために神田に移動した。さあ、カレー食べるよ、カレーっ‼︎

続きます。

 

 

 

 

羨ましいと懐かしい

・古式マスターヨーガは、サンスクリット語で「プールベシャーム、アーチャリーヨーガ」って言うんだけど、そんなん他の人にいってもピンと来ないだろうから、分かりやすく古式で、マスターのためのって訳してね。南インドバラモンのごく一部の人たちが扱ってきた技術なんですよ。と、木村先生は教えてくれる。

 

自分が呼吸法を教わるようになって日の浅いあるとき、木村先生たちと居酒屋で食事をしていたときに、お師匠様となるかたとの出会いについて質問した。

先生が関西のデパートの催事会場に出店していたときに、隣に出店したインドのお店のラニー大先生(自分はおおせんせい、と呼ばせていただいてる)と出会ったこと。ラニー大先生は年配の女性で、木村先生に出会ったとき、とても喜んでいたこと。

ラニー大先生は「約束」を果たすために、約束した相手となる目印とゆーか、ヒントとゆーかをご存知だったようで。

木村先生を見たとき、その約束した相手だとわかる目印、ヒントが木村先生にあるって分かって、だからとても喜んだそうだ。当時の木村先生からすれば、なんなの?って感じだったろうけれど、ラニー大先生から初めて手のひらに氣を通されたとき、別の意味で「何ですのっ⁈これっっ⁇」ってなったそうだ。

 

そのような当時の話を居酒屋さんで聴いたとき、そんな事があるんだなー、と思った。

何かの約束を、いつ、どこで、誰と果たせるのかは分からないけれど、印やヒントがあって、でもまだ出会えていない期間とは、どんな気持ちなんだろう。

 

たまたまインドから日本に来てて、たまたま隣どうしのお店で出会って教えを受けて、何年か後にインドに帰国なさって、しばらくたって再び来日なさってるの知らずに、たまたま横断歩道だかで偶然にも向こう側にラニー大先生がニヤニヤしながら木村先生のこと見つけててびっくりしてて。

そんな話を事あるごとに聴いてると、ラニー大先生に会ってみたいなぁ、トンレンさせていただきたいなぁ、色んなお話伺いたいなぁと興味が湧いてくる。

もし、もし万が一にもだけど、また木村先生とラニー大先生が、お会いすることがあるならば、雨が降ろうが槍が降ろうが、私、そちらに伺いますからっ‼︎だから絶対私に連絡して下さい!とお願いしたことがある。

いやー、そんなこともうないかもしれないけれど、言っておかないと悔しいからな。

トンレンで大先生と木村先生とが練習した時のことを話してくれたとき、その光景が羨ましかった。いーなぁ。自分もそこに居たいよ。と思った。

 

 

・自分はいま、トンレンを通して、色んなことを考えたり気づいたり、感じたり、そこから学んでることが、沢山ある。

見たり聞いたり触れたり嗅いだり味わったりの、それ以外のツールとして、トンレンを通して、なるほどー。と思ったりしみじみ感じいったり、面白くて嬉しくなることが増えた。自分が面白いからやってるだけなので、その内容はというと、誰かの役に立つことなんてない、瑣末なことなんだけど。

 

絵だったり、文字だったり、写真や物や場所だったり、初めて会ったひともすでに知ってるつもりだった人にも、インタビューの記事の言葉やふるまいからも、トンレンから分かって来た部分を繋げていくと、なるほどー!って感じて、キレイで嬉しくて泣きそうになることが沢山ある。そんなとき、いつも不思議なんだけど必ず「懐かしさ」に似てるような感覚があるから何でかなぁ?って思う。

この正体がわからない。追跡しようとすると、スーッと消えていっちゃうんだよな。そのうち分かってくるのかなぁ。

 

 

 

納涼トンレン

昨晩は残業を終えて屋外に出た途端、不快な蒸し暑さで困った。暑さや湿度にはそこそこ耐性があると思ってたんだけど、昨日のアレは身体が拒否してた。歩いても歩いても、不快な蒸し暑さが空間にミッチリ詰まってて泳いでるみたいだったから、冷房の効いた電車の中に入ったときはとても楽になった。

 

真夜中に寝苦しさで目が覚めて、これ以上意識が覚醒しないように、布団の上でぼんやりジッと横になってたんだけど、外から犬の鳴き声がする。深夜の散歩にしては遅い時間だなぁ。とか考えてたら、どんどん身体が目覚めてきちゃって体温が上がってくる。こりゃ暑い。

 

不快な蒸し暑さじゃなくて、程よく潤った涼しさが欲しいんだよなぁ。と思って、そーゆーの、どっかになんかあったような、なんだっけ?と考えだした。

ああ、樹とか葉っぱの沢山ある公園歩いてるときとか、早朝の屋外とか砂や土のある地面のところがそんな感じだったっけ。と思いだす。アレは実にいいもんだ。サラサラして落ち着いてて気持ちがとてもいいのだ。

 

そんで、じゃあ、まあ、駅前の横断歩道の角にある街路樹、通称「樹先生(き・せんせい)」でも思いながらトンレンすれば、程よく潤った涼しさを体感できるんだから、いまやろう。と考えた。布団の上で横になったままな。

さあやろう。寝っ転がってるこの自宅から歩いて8分の距離にある、樹先生をトンレンするのだ。

 

足の裏、仙骨、手のひらがサラサラジリジリしだす。頭頂の百会(ひゃくえ)からユルユルと氣の流出が始まる。

当たり前だけど、樹先生には根っこがある。だから地続きに自分と接してる訳だ。枝や葉っぱも、ミッチリ詰まった空間越しに自分と接してる。そう考えると、距離は気にならず、すぐそばでトンレンしてるのと同じような感覚になる。

そのうち、サラッと涼しい状態が足の裏や仙骨や頭頂を通して身体いっぱいに溜まっていく。あ〜、涼しくなってきた〜!

 

樹先生とトンレンする。とゆーことは、つまりはこの地域一帯ともトンレンできるんだよな、たぶん。と思って、少しずつ範囲を広げていく。ご近所の庭の木も高台も、川のある谷も、学校の校庭も花壇も鉢植えも。夜の静けさと空間の潤いと地面の落ち着きがじわー、じわー、と身体に入ってくる。実に気持ちがいい。

そんな感じで1時間くらいトンレンして、気持ちよく眠れた。

 

 

 

 

旅行のときのみえかた

・そういえばワールドカップのなんたらで、サッカーの試合があったときだったから、たしかオランダとベルギーに旅行に行ったのは2002年だったと思う。

当時働いてた会社の社長から、「もし見つけたらでいいから、お土産にフェイエノールトのユニホーム買ってきて〜‼︎いちばん大きいサイズで!」とお願いされた。

スポーツに全く興味のない自分は、よくわからないまま、ふぇいえのーると、ふぇいえのーると、と念仏のように唱えながらスポーツ用品の店やアムステルダムスキポール空港のショップでユニホームを探したんだっけ。

 

ベルギーに到着して、はじめての晩ご飯のサンドイッチを買いに下町に出向いたら、ちょうど仕事帰りのおじさんたちがカフェでくつろぐ時間だった。日本人の自分たちに気づいた何人かのおじさんたちが、ウェーイ‼︎ジャパン!とかジャポネなんたらかんたら☆○♯?と声かけてくる。相手はほろ酔いテンション高めだし、こちらは空腹で疲れてて人見知りだから、そのまま通り過ぎたけど、今思えば、あの頃ちょうどベルギーとのサッカーの試合があるとかそんな感じだったから、「俺たちが勝つぜ!」とか「試合楽しみだよな!」とかそんな感じのこと言ってたのかもしれない。

公園に行くと、広い芝生があって、誰かしらサッカーしてる人たちがいた。

 

・オランダのアムステルダムを観光したとき、家のドアの前で、これから家具を運び込む男性2人がいた。見た感じ、配送ドライバーなのか、業者のひとだったかも。

腰の高さぐらいの足付き木製チェストを、片方の人は後ろ歩きで、もう片方の人はゆっくり進行方向に向かってエッサホイサと運んでた。

途中から片方の人が、ちょっとふざけて、入り口のところで運び込むの阻止するような仕草をした。相手のひとも、フフって笑いながら、阻止する動きの隙をつくように運ぼうとする。

どちらもおじさんで、大人なのに、子供みたいに面白がってて、そのワンシーンをたまたま観て、とても印象に残ってる。

家の窓は大きめで建物も縦長で可愛らしかった。屋根の下の壁のところには、家具を吊り下げて二階とかに搬入するための滑車がついてるのが珍しかったから歩きながら上ばかり見てた。たまたま窓ガラスを磨いてたお婆さんが、こちらに気づいてニコニコしながら手を振って挨拶してくれたのも、いい思い出。

 

スーパーで買い物したとき、美術館のチケット買うために並んだとき、フードコートのピザ屋で注文したとき、電車に乗ったとき。公園のベンチに座ってたとき。

有名どころの観光地もいくつか行ったけど、良くも悪くも印象に残ってるのは、フツーにそこで暮らしてるひとの、ちょっとしたワンシーンばかりだ。「旅行」だと、特別っぽくて自分の見え方が変わるのかなぁ。

じゃあ、いまの日々の暮らしも旅行だと思ったら見え方も違うかなぁ。