ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

本格的に楽観する

仕事から帰宅して晩御飯を済ませてから、skypeで木村先生の遠隔レッスンを受けた。

 

センスのある人が、生きることに真剣で貪欲だと、時代や現象などの見切り、行動に移すタイミングもうまくいく。ってことを話したり、現在の自分を取り巻く状況、そこから教わってること、これからの課題なども話した。

その後は陰の呼吸法6番、退陰符、ゆっくり深呼吸で終了。

「もっと、押し込むように退陰符で降ろして納めて。」って、毎回指摘があった部分も、だいぶよくなってきた。

終了してから「いいですねー。でもゆうがたヨクサルさんには、まだ降ろせる余分があります。もっと氣と意識を安定できるんだから、どちらも鎮めていきましょう〜!」ってアドバイスを受けた。

も、もっとか…

 

呼吸法を初めてから、少し前までは、例えば「氣の内圧」が降りれば自ずと意識レベルも下がったし、「意識レベル」を下げれば自ずと氣の内圧もお腹に溜まってきた。(←氣を降ろせば眠くなったし、眠れば氣は降りたという意味で)

 

でも、最近やこれからは、両方を意識しながら、より鎮めて、より穏やかに安定させるのが目標。

穏やかに鎮めて、「楽観」をベースにしていく。自分の場合は、多少の不真面目さのような部分も含めての楽観を、本格的にやってくこと。…って、おーい、本格的なのに楽観なの⁈

 

「んー、なんというか、こう、ガッ‼︎ってやってすぐにまたスーン…となって、またグワッ‼︎って感じですね。」と教わる。

瞬時に集中して見きって、また直ぐに楽観。例えば、瑣末なことはどーとでもなるから大丈夫。というような穏やかな安定感。

楽観なんだけど、浅はかとは違うから、コレ難しいなぁ。

 

でも秋頃までの予定や計画なんかを考えると、その方がいいのかもなぁ。ちょうどいい練習と実践になるなぁ。と思いながら楽観と浅はかとの違いとは?を考えこむ。

受け皿

自分の勤める職場の建物にツバメが巣を作った。今年はいつもよりはちょっと遅めかもしれない。

何台もの大型トラックが駐車できるスペースと、荷物を積んだパレットの置ける搬入通路のちょうど真上の天井にある蛍光灯の傘の部分に巣はある。

ある年はもうちょい駐車場寄りの蛍光灯の傘に巣を作ったり、他の年には2つ3つの巣があったこともあるけれど、今回はひとつ。

 

あれは会社の都合だったのか、2年前くらいにはツバメが巣作りしてる途中で、撤去された事もあった。生き物だから排泄物や羽毛などの汚れも落ちてくるし、使い終えた巣も崩れて落ちるし、色々と理由はあったのかもしれない。

 

それが原因なのかは分からないけれど、去年はツバメの巣はなかった。自分が気づかないうちに撤去されたのか、ツバメさんがたが最初からこの場所を選ばなかったのか。

ちょっと寂しいなと思っていたから、今年、ツバメさんがたが巣作りを始めた頃に、また撤去されちゃうんじゃないか?と心配だった。

先週ごろからは親ツバメが行ったり来たり盛んに飛び回っていたから、雛が孵ったんだな。と分かったけど鳴き声はまだしてなかった。

 

今週の月曜日に、朝、出勤するとき、巣のある蛍光灯の傘のところに平べったい箱状の受け皿が設置されていた。普通の脚立では到底届かないはずの高い天井の壁に、わざわざドリルで穴を開けてあって、太い針金で左右に吊って固定してあった。

 

それを見てなんだか「ああ、いいなぁ。」と感じた。

 

こーゆー処置をどなたかがなさって、それを会社のかたも了承したのだと思うと、いいなぁ。って感じる。

 

親ツバメは、蛍光灯の傘と受け皿との隙間を、器用に出入りして、雛に餌を与えてる。鳴き声も日増しに力強くなってきてる。

朝と、帰りに、それを見ると元気貰える。

 

 

退陰符しまくる

ここ2、3週間は、職場皆んなの仕事の踏ん張りどころで、過渡期の1番てっぺんでもある。

仕事のことでは自分も同様な訳だが、呼吸法をしようがしまいが頭部への氣の内圧が上がりやすくなる。

 

首から肩にかけての疲労度が、腰に負担をかけてる。休憩がてらに退陰符で丁寧に氣を腰まで降ろし、停滞しがちな首肩腰を右手で吸い取る。

まどろっこしいときは、内丹の呼吸法に変えて、背中側の督脈全体に氣の内圧でもって押し流して、また退陰符で降ろし納める。

 

実践するいい機会だし、やればやるだけ自分を知る事ができるなぁ。更に言えば、気持ちの余裕、隙間とは、幾らでも自分自身で作ることはできるなぁ〜。って思う。

 

張り詰めた、まじめすぎる空気感をほぐすには、ちょっとしたユーモアのあるコミュニケーションで変化する事ができる。

笑うって、凄いなぁ。

 

 

どの位置にも居る

自分の目の前や上や先に進んでる存在というのは、自分を引っ張り上げてくれる。

引っ張り上げてくれる存在ってのは、自分は見てる訳だから「こんな感じなんだなぁ。」って思っていられるし、それを凄いなぁ。とか憧れたり感謝もする。

 

でも最近、それだけではないなぁ。って気づいた。

 

引っ張り上げてくれる以外にも、自分の後ろや下でしっかり支えて、押し上げてくれる存在もあるってこと。

なんとゆーか、こう、落ちないように、グラグラ倒れないように。黙って、踏ん張ってくれてるんだ。

前や上や先ばかり見つめてる自分は、踏ん張って支えてくれてる存在を、気付かず知らないままで、いつの間にか、姿を消すこともあったのかもしれない。

 

そう考えると、自分の横や隣にいる存在だって、曲がらず、外れず、グルグル同じところを踏んでばかりいないように、肩組んだり手繋いでくれてる。

 

いったい今迄、何を見てたんだろうな。

まあ、何も見てなかったら、今頃気づいたんだけどさ。

少し前に、「誰かに何かをしてあげるとき、どんなふうにしたい?」ってことが話題にでたんだけど、「先頭に立って引っ張るよりも、押し上げて支えるために後ろに居るのが好きだ。」って自分の口を突いて出てたときに、ああ、そうか。って思った。

 

それなら尚更、踏ん張れるようになっておかないとな。

ほんとは上下左右、どの位置にも、相手に合わせて自在にできるのがいいんだけど。

 

 

 

 

2分

神保町で開催する東京氣塾に行ってきた。

向かう電車の中で内丹法②→退陰符、陰の呼吸法②④⑥→逆退陰符を神保町着くまで繰り返し。を練習した。

何処に行くにしても、誰に会うにしても、呼吸法で氣を発電して体内に満たし、退陰符でお腹にしっかり降ろしておけば、腹も座るし安定感があって何かと具合がいい。心情としては「よーし。さ、いくよ。」って感じだ。自信の無さも、能力の低さも、過去の失敗を怖がるのも、薄まって、勇気とワクワクと素直さが膨らむ。自分のキャラクターが変化する。

 

今回の東京氣塾は、参加者の方が集まるまでの時間を有効に活用しようと、生徒さんたちにやりたい練習などを聞き出しておいた。

自分の場合は、会場に到着するまで呼吸法をしょっちゅうしてるからウォーミングアップは出来てるけれど、皆さんが同じようにアップしてる訳でもないし、室内の雰囲気とゆーか、バラバラな意識をある程度はまとめておくのもいいよな。と思ってたので既に到着している生徒さん達と呼吸法の練習をすることにした。

する事にしたけれど、強制ではないのでしたいならすればいいし、個人で他のことをしながら待つのも自由。

 

氣を発電して体内に増やしていく「進陽火」(自分は勝手に「半笑い廻し」と呼んでる)、上がった氣を降ろしてリラックスと安定感を作る退陰符、退陰符をする時は、肩も首も、背中も緩めて力みを残さない。

繰り返しやってると、ひとり、また1人と後から生徒さんがたが到着しては練習の輪に加わって呼吸法をする。あ!コレなら後からいらしたかたも、たとえ直前までバタバタしてても呼吸法をすればスッと意識が整えられるなぁ。いいなぁ。よーし。

 

参加者のかたがほぼ集まり、雰囲気もいい感じになってきたところで木村先生の講義が始まる。講義の後ろで控えつつ、施術の人数確認と時間、休憩時間、待機メンバーの練習内容と配分の見積もりをする。

 

講義を終えて休憩を挟んでから、初参加のかたの施術が始まり、他の生徒さんがたは乱取り稽古をする。自分が采配をする時、誰と誰で組む、ってのは、偶然なようでいて、実は結構ハマるものだ。

表情を観察していると、ああこれでいいんだな。と思える驚きもあるし、なるほどなって面白さもある。

 

練習内容をお互いに出し合ってスムーズに始まる場合もあれば、え?何をしたらいいのかなぁ。って場合もある。そっと寄って、わざと質問して促したりきっかけを作るだけで、後はもうお互いの氣の循環や集中が生じて練習が始まる。そうなったら自分は端っこで引いて俯瞰すればいいだけだ。

 

この組み合わせは、ギクシャクしちゃうんじゃないかね?って思っても、なんでか「いーや、大丈夫だから、コレでイケるから。」って感覚のほうが勝る。そんで観察していると、ホラ、こんなに楽しそうじゃないのよー。って表情を見せてもらえたりするからこっちまで嬉しくなる。

 

自分は谷山教室の生徒さん2名と一緒に肩コリ暖和の呼吸法を練習した。「氣は張ったところから出る」から、それを活かすやり方なんだけど、自分でちゃんと出来るようになってれば、やがては相手にしてあげる事もできる。

話しの中で相手から抜き出したコリだの影響について質問がでる。じゃあそれ(影響)を解消するには、とか、氣の素になる精ってのは何処にあるのか?とか、影響を受ける与える、持ってかれる、造る。だとか、次々と問答で盛り上がる。

 

呼吸法のこーゆーことを普段の生活でやってみたいんです。って打ち明けて貰って、ああ、いいですねぇ。私の場合はこんな感じでしたよ。とか、そんなやり方もあるんですねー。とワクワクなさるのを拝見してると、今迄の自分がやってきたことも、当時の自分がどんな気持ちでどんな悩みがあったのかも思い出す。重なる。

 

乱取りトンレンの後は、輪になるように椅子に座って「この氣は何処やねん誰やねん」(←自分が勝手に命名)をした。谷山教室のTさんからのリクエストです。

呼吸法で発電、退陰符でスーンと意識を静かにして、自分が内緒で指名したかたに呼吸法でブンブン気持ちを発してもらう。

他の人たちはスーンとしてるから、どの辺から違和感がきてるか?を感じる練習。

実生活では例えばなんかあっちのほうからイライラしてる気配がするから行くのやめとこ。とかなんか楽しそうな気配がするから何かあったのかな?とか意識をフォーカスする又は敢えてしないとかの練習。サインを拾う、反応することにも繋がる。

それから指名して氣を発していた人を当てたかたの「どうやってそれが判ったのか。」とか、どんな風に皆さんが感じてたのか?をシェアする。

 

休憩を挟みながら練習も後半となり、ベテランさん4名が椅子に座って並び、立ってる4名が数秒ずつ手のひらに氣を受けて、隣に移動してまた氣を受けて、と順繰りに体感していく。コレはナカジさんのリクエストです。(←名はまだナイ)

氣にも相性があるようなので、分かりやすい人の氣質もあれば全然分からないときもある。

この練習は、慌しいのでもう少し工夫をしたほうがいいかな。

 

その後は時間も残りわずかなので、相性が良さそうな組み合わせでペアトンレンをした。

全体的に緩急をつけてやってみたけれど、詰め込みすぎだったのか、丁度よかったのか、それともまだまだ物足りなかったのか、四時間の練習、皆さんどうだったかなぁ。

 

帰り道で、木村先生から「俯瞰と陰陽と合わせる時間の塩梅」について2分くらい舗道で教わる。skypeや文字で話す時とは違って、手の動き、眼の色、意識の奥の形がバンバン伝わる。

今迄と今日の進行とを照合しながら教わったことをなぞる。たった2分だけれど、自分の中で物凄い質量となって身に沁みる。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俯瞰を突き抜けろ

日常で、起きる現象のひとつずつを観察して、データを集めて自分の主観と周りの客観とを合わせて持つ作業までは習慣になってきた。

最近は、それらを合わせたものを更に精製し始めていて、俯瞰の位置へ行きつ戻りつしてる。

でもまだこの段階では、保守的なそこそこの、普通レベルのものでしかないから、普通レベルよりも困難な現象に対しては効果が弱い。

 

効果が弱いのは、自分の精製が未熟だからと思ってるんだけど、繰り返し何度も目の前に突き付けられているのに、出来ない自分が悔しくて仕方がない。

そこにきて、氣の立ち上がりが速く強い現在は、退陰符で降ろす作業が甘いと、想いが溢れて堤防が決壊する。修復作業もしつつ、俯瞰の位置を練習してる。

 

ずっとひとりで模索してきたけれど、なかなか進みが遅いので、今日の遠隔レッスンの時に木村先生に問うてみた。

「今のゆうがたヨクサルさんは、俯瞰を突き抜ける段階に向かってるから、そう感じてるんですよ」と教えて貰った。

 

「主観から客観、俯瞰、達観」道理を得る(俯瞰から達観へ)2|古式マスターヨーガ「本当に使える《氣》の正体」

 

うーん。俯瞰をも突き抜けるとかは、まだ先の事だと思ってたんだけどな。でも、自分が察してる気配や感じてることの「答え」がこれならば、納得がいく。

 

 

 

 

茹で卵タイム

今朝の通勤電車中の呼吸法の練習は、内丹法②で陽の氣を身体全体に満たす→退陰符で腰回りまで降ろす。

陰の呼吸法に切り替えて②④⑥→逆退陰符でまた下半身まで降ろしてから瞑想をした。

 

車内の人たちが駅で乗り降りするのも分かってるし、走る電車の音や揺れも感じてる。

意識内に浮かぶ、雑多な思考が次々と浮かんでもいちいち構わずに、そのまま素通りさせていたら、なんの関連もないのに、幼い頃の自分を思い出した。

 

実家は祖父を中心とした家族で自営業をしていたから、幼い自分は近くに住む伯母の家で面倒を見てもらっていた。祖母の妹である伯母と、自分の2人で昼間を過ごすことが多かった。自分のもうひとつの家みたいな感じだった。

 

アレはおやつなのか、離乳食だったのか分からないんだけど、細かく潰した「固茹での卵」に醤油をちょっとだけ垂らして混ぜたものを伯母がスプーンで食べさせてくれるのが好きだった。

伯母の家の、台所のテーブルに隣同士で座って、子供用のちっちゃなお椀に入ったやつをちっちゃなスプーンで一口ずつ、くちの前まで持ってきてくれる。

自分がパカ〜って口を開けると、伯母がホイッ!とゆで卵を押し込んで、モグモグ食べてる間に次の一口ぶんをスプーンですくって整えてくれる。

自分はパサパサして硫黄のにおいのする黄身よりも白身のほうが好きだった。白身ばっかり食べたがった。実家では自分で手で掴んだりスプーンで食べていたのに、伯母の家だとまだ食べさせてくれるのも面白かったんだよな。え?いいの?って思ってた。

でも伯母としては、黄身を残させないように、潰して全部混ぜて完食させる工夫だったのかもしれない。

 

幼い自分の「食べる」行為は、お腹が空いてて味も好みだから「食べた」ってことになるんだけど、もうひとつ好きな理由があったのを、今朝気づいた。

伯母と一緒に同じ作業をしてる事が楽しかったんだなと。

 

食べ終えて流し台で食器を洗ったり、ご飯の後片付けをするとき、くっ付いて横にいると「あっちで待っててね。」とか「お部屋で遊んでなさいよ。」って離そうとする。

風呂やトイレや廊下を掃除するときも、洗濯物を干すときも、自分がそばでチョロチョロ纏わり付いてると家事がはかどらないからな。ちっちゃな自分が手伝えることなんてほぼ無い。そりゃ、そーだ。

 

でも、食べる時なら一緒に座ってくれるし、伯母のスプーン係が来たらパクっと食いつく係を自分がすればいいのだ。(餅突く係と餅返す係とか相互関係みたいな感じ)

「はい、お終いー。」空になったお椀とスプーンを見て、「もっともっと!」とアンコールする自分のほんとの理由は、一緒に座ってひとつのことを自分と伯母とでするのが楽しかったからなんだけど、大人の伯母からすれば、「んまー、この子はホント茹で卵好きねぇ。」って思ってたんだろうな。

 

相手や対象が居るからこそできて、面白いことは沢山ある。自分がトンレンを好きな理由は、伯母との「茹で卵タイム」となんら変わりない。