ベジるビバる

ゆうがたヨクサルのブログ

夢とパンジー

・時間に余裕がある休日と出勤日の間の夜には、たっぷり睡眠タイムをとってるんだけれど、何故かこのところ2、3回は、毎回同じような設定の夢をみる。

色んな角度から見た出来事が、1つのものに集約されていて、それを納得してる自分がいる。とゆー夢。

 

例えば、ひとつの曲がある。歌詞や音楽、歌い手、聴くひとや場所など、そこに携わる人たちの想いや関係性や縁のようなものが、「ひとつの音楽」になっていることが、枝を触ってるような感じで自分に集まってきて、夢の中で納得して喜んでる。とか。

何かの仕事をしていて、それを行うための機械や道具や材料や、依頼する側、工程を繋ぐ側、届けるための流通の仕組み、そこに携わる人たちの想いや関係性や縁のようなものが絡まって広がって、俯瞰したとき「ひとつの集合体」になってることを夢の中で納得してる自分がいて、嬉しくなる。とか。

こうしたらこうなった。の連鎖が、なにかを形成してる。とゆーことが、夢の中で、ぱっぱか、ぱっぱかと浮かんで繋がって、あー、いいなぁ。こーゆーの、いいなぁ。と、夢の中でひたすら感動してる。とか。

毎週のように、似たような夢の内容で、納得して目が覚めてる。起きてからも、その納得感は保たれていて、週初めの朝はだいぶ機嫌がいい。

 

夢の中の出来事だけども、皆んなが皆、都合のいいように優しいわけでもないし、スムーズに進むわけでもなくて、何処かでウンウン悩んだり失敗したり、損得の駆け引きや予想外のことが起きて長引いたりするのだけれど、そこも含めて「ひとつのかたまり」として納得してる自分がいるのだ。

納得してる。とゆーのは、「そーね、いいじゃない」とか「そこがいいんだよ」とか「是」とか「有りよりの有り」として肯定的に受け入れてる状態とも言える。

ゆうがたヨクサルは、夢の中では器が大きいとゆーか、目が覚めて日常の生活を送るときよりもずっと心が広いなぁ。とちょっと反省する。

寝ても覚めても、いつもこれぐらい余裕があって、器量が持てればいいのになぁ。

 

・自分が住んでる建物の階段を降り切った、段と地面の隙間の角に、濃い紫色の、ちっさいパンジーの花が咲いてる。近くのプランターの種がこぼれて芽を出したようだ。

階段とアスファルトの地面の隙間の、絶妙なところなので、も少し大きく育ったら通行人に踏まれてしまいそうなくらいだ。

植え替えて自宅にでもおこうかな。とも思ったけれど、春先の気温や日差しや、雨やわずかな土など、このパンジーが根付いて開花するのにちょうどいい場所だったからこそ、今ここで咲いてるんだよな。と思うと、引っ越しさせるのもなんだな、と思ってそのままにしてる。

 

「何かが起きるに適した条件が揃う」とゆーのは、偶然なのか必然なのか、と考えるのは面白いな。

作為があってそれが成ることもあれば、無為であっても成ることもあるなぁ。

自分はわりと無為で成るようなことを面白がるほうで、実際、ゆるゆると生きてきたのだけれど、「この為に色んな準備してきましたぁぁーっ!」ってことを人から話聴くのも、凄いなぁ、面白いなぁ。と思うようになった。

パンジーも、目的に向けて準備してる人たちも、どっちも素敵だな。

 

記憶を見る角度

昨日の朝、通勤電車の中で呼吸法の練習をひっそりとやって、そのあと退陰符から意識をフラットに持っていって、瞑想状態にした。

今回のテーマは「ゆうがたヨクサルが今までで、いちばん嬉しかったことってなんだ?」とゆーこと。

心の中の「嬉しかったリスト」のページがパラパラとめくられてくような感じで、あんなこと、こんなことあったなー。どれがいちばんなんだっけ?と検索してるような感じだった。

 

4番チャクラの奥に意識をフォーカスして、何かあるのは手触りでわかるけどよく分からないでいた。

「4番から6番に流し込むんだよ。」と、アドバイスをしてくれてるような感じがあったから、そのとうりにしてみた。

 

…なーんか、視覚イメージが湧いてくる。視覚的な感覚はけっこう苦手なんだけど、今回は調子がいい。

小学生のとき、臨海学校で一泊したときのことがでてきたぞ。

 

消灯時間前に、自分たちが使う部屋で、数人の生徒が噂話をしてた。

自分はもう眠くて、窓側の寝床で彼女たちの話をなんとなく聴いていた。先生達の中で、2名の先生、どちらなのか分からないけれど、変な噂あるの知ってる?って感じの内容だった。

片方の先生の名前が、自分が1、2年の時の担任の先生だったから「あの先生がそーゆーことする訳ないのに…」と思ってた。

 

そんな噂話をしてるところに、凄いタイミングで、噂をしていた先生(元、ゆうがたヨクサルの担任教師)が「消灯時間だぞー。寝なさい。」と部屋を見にきた。

そのとき噂話をしていたうちのひとりが、先生に向かって「せんせいってさー、〇〇先生ってホントなの?」と冷やかすような失礼な言い方をした。自分はムカッとした。

 

先生は、一瞬、哀しそうな顔をしたけれど、その生徒をジッとみてから次に自分が寝てる部屋の1番奥を指差してこう言った。

「ゆうがたヨクサルにきいてごらん。私がどんなせんせいかは、ゆうがたヨクサルが知ってるから。」

一斉に皆んなが自分のほうを見てくる。

その時のことを思い出したんだ。あったなー、そんなことも。(この話、以前ブログに書いたような気もする)

自分は「せんせいは、そんなことするひとじゃない。いいせんせいだよ。」って答えた。

皆んなシーンとして黙ってて、その後はもう寝なさい。と部屋の電気を消されて寝たなぁ。

 

あれ?でもなんでこの場面が「いちばん嬉しかったこと」を内観してて出てきたんだろう?と思った。あれは自分が好きな先生が変な噂話になってるのが嫌でムカつくことだったのに。

 

いま、あの時のことを再生して体感し直してみると、あのとき、先生が自分にたいして、この子なら本当の答えをいうだろう。と信頼してくれたことが嬉しかったんだ。と分かった。

親子ほども離れてる大人が、子どもの自分にたいして、同等に扱ってくれるような、そのようなことを託してくれたことは、たぶん生まれて初めての経験だったと思う。これって、言葉にするとなんて単語になるのかなぁ。

手を叩いて喜ぶわけでもなく、顔が崩れるほど笑顔や泣き顔になったわけでもない。嬉しいこととゆーのは、そのようなリアクションになる事とばかり思ってたけれど、これがじぶんが「いちばん嬉しかったこと」なのかぁ。こんなに静かで暖かくてしっかりとした質感のものだったとはなぁー。と新鮮な感じがしたんだ。

 

当時がどんなだったとか、その時どんな気持ちだったのかも覚えてるし、たしかにその通りなんだけれど、今、同じシーンなのに、別角度から見たとき、全然違う景色と心情を見つけた。

こーゆーのあるから、内観瞑想ってやってて面白いんだよな。

 

と、こんな感じの内容を職場の休憩時間に同僚に話していたら、「凄くいい話だなぁー!私もそれ(瞑想)、出来るかなぁ?私も思い出せたりするかなぁ?」と質問してきた。

どんな人でも想い出や心を動かすようなことは、ちゃんと記録されてるから、出来るんじゃないかなぁ。呼吸法とか瞑想とか、そんなん知らない人たちだって、皆んな想い出を色んな角度から見ること、出来るんじゃないかなぁ。

自分の心と仲良くなってれば、見せてくれるんじゃないかなぁ。

でも訓練すると、もっと幅や奥行きが増すかもね。と返事した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぽふぽふ

昨日は神保町で開催する東京気塾だった。

久しぶりにお会いする人たちや、初めてお会いする人たちとトンレンの練習をした。

以前お会いしたときよりも、氣の量が増え、質感が柔らかなものに変化しているかたなどとトンレンをするときは、嬉しくなる。

日々、工夫しながら練習時間を作って、コツコツ取り組んで、ここまで気量や質感をいいものに高めてこられたんだなぁ。と、手のひらに当たる氣を体感するたび、自分のことのように嬉しくなる。

 

氣の体感、感覚の練習になるかな、と思って自分がいつもしていたことを一緒にやってみた。

右手を体の表面約10センチくらい離れたところに備える。例えば顔から10センチくらい離れたところを触れるように、そっと、ぽふぽふ動かす。

そうすると、実際には顔に触れていないのに、なんだかモヤモヤ、ぽふぽふした空気の塊や熱感ようなものを感じるのだ。

これは自身を取り巻く氣のあつみを感じる練習になるし、外部に反応する練習にもなるし、何より面白いのだ。

 

「じゃあ、目を閉じてどの辺に右手動かしてるのか、試してみましょうか〜!」と促して、目を閉じてもらい、ご自身の体の表面に意識を向けてもらう。

左側のこめかみの辺りを、ゆうがたヨクサルの右手でぽふぽふ動かす。

「この辺ですか?」と指差して答えてくださる。目を開けてもらって、「正解〜!」って一緒に笑う。

 

自分は、最初の頃は、この感覚が面白くて楽しかったから、呼吸法の練習をひと通り終えた後とか、いつもやってた。

そんで、肩とか腰痛いところは、その部位だけ右手に当たる氣の質が荒かったり濃かったりするのもわかってきた。

花粉症のせいか、後頭部が重たいときなんかも、その部位の氣の質感はザラザラしてた。

 

そうやって、自分で何度も試してたから、痛みのあるところとか、凝ってるところとか、溜まってるところは、こんな感じの体感があるんだな、とわかるようになった。

その部位に右手を軽く添えて、吸気すると、ザラザラや濃い塊の氣が吸い取られるので、吐気するときに左手から排出する。左手から出てくる氣は、やっぱり荒くてザラザラしてるのだ。面白ーい!

 

何回も吸って吐いてを繰り返してると、さっきまで荒さや濃さのあった部分が、ふわっと軽くなる。右手センサーで再び確認すると、荒さが軽減してるのだ。面白ーい!

 

たまたまできたんじゃないか?とか、思い込みじゃないか?とか、疑り深いゆうがたヨクサルは、しつこく何度も自分で試してみた。

そんで、こーなってるときは、だいたいこーなってる。ってデータが集まってたころ、職場の同僚の体の痛みや吐き気なんかをトンレンでトレースしちゃうケースが増えた。

じゃあ、散らすか!と、いつも自分でやってるとおりに、同僚たちの胃のところらへんや、肩や腰や肘の痛いところに手を添えて呼吸法すると、「えぇーっ?なんかスッと楽になってきたんだけど⁉︎」と変化を教えてもらえるので、更にデータが増えるとゆー、ありがたい事もあったな。

 

気感の練習で、ぽふぽふ動かすのはおススメです。

 

 

お茶すすり、正拳突き

さっきまで京都の木村先生に、Skypeで遠隔レッスンを受けていた。

呼吸法のレッスンを受けて、ゆっくり深呼吸で終わってから、木村先生が「いいですね〜!安定してるし氣の量も多いですね。」と話してくれた。

 

安定かぁ。

最近の自分は、静かに過ごすことが多いんだけど、急にやらなきゃいけない事が発生もする。

それを直ぐに片付けて、また静かな状態に戻るのが、何回も続いてる。

突然降って湧いた出来事を、いざ!ってノリで片付ける時間はとても短い。

さっきまでの忙しいのは何だったんだ?ってくらいまた静かな状態に戻る。

静かにベンチに座ってたのに、急に立ち上がって正拳突きしてまた静かにベンチに座ってマッタリするのに似てる。

 

このことが「安定」とゆーことを考えたとき、急な出来事が発生することが「不安定(安定出来てないからそうなってる)」なことなのか、ちょっと分からないでいた。

他の人たちに、静かだったと思えば急に忙しいし、また静かになるんだよね。と話すと「イヤ〜。体に悪いw」って笑われたりする。

 

現在の自分の「陰の氣5段目」は、安定を図ることがテーマとなる。だから今日のレッスンの時に、木村先生にそのことを質問してみた。

「それでいいですよ。それ正解。」と、答えてくれた。

要は緩急をつけることができてるのが大事で、ずっと忙しく動き回ってたら疲れちゃうでしょ。

ボヘ〜…っとしてても、いざとゆーときに一点集中して処理して、またボヘ〜…ってするのがいいのだと。出来る人ほどそうしてるのだと。

なるほど、そこ全部含めての「安定。」って言葉だったのかぁ。と腑に落ちた。

 

今の自分は、直感にたいして体が自然に「そう動いてくれてる」ことが増えた。

頭で考えてから動いてるのではなくて、

 

(お茶すすりながら)いいねぇ、春だねぇ。マッタリしてるなぁ→えっ⁈なんか発生した(又はその予兆がある)→ホラ始まった!動け動け、あれ、勝手にうまく動けてるなぁ→はぁー、終わった。やっぱりマッタリはいいねぇ(そしてお茶をすする)の繰り返し。

 

って感じで、考えや感想のほうが、後から補足されてるくらいだ。

ベースとなる、マッタリしていられる静かな状態の面積が、以前より増えたことも関係してる。

急に問題が発生したときの対処、処理に慣れてきたから、ってのも関係してるかもしれない。

今の自分が、「5段目の安定を図る」を、体験できてるんだなー!って思うと、段階って上手いこと出来てるな!って感じる。

 

 

 

 

 

 

 

マルコもセーラもフローネも

・休日にジョナサン・スウィフトガリバー旅行記青空文庫で読んだ。

子供の頃から知っていた内容(小さい人々が住む国を訪れるやつ)が、本の序盤であったことを初めて知った。

その後に訪れる大きい人々が住む国、浮島(ラピュタ)のある国や不死の人がいる国、日本や馬のような種族の国、渡航の初めと終わりを繋ぐ船旅道中などは「色んな尺度、考えかたや習慣の違い、背景」がみっしりと書いてある。なるほどこれが風刺とゆーものか。とも思った。

ガリバーが渡航先で現地の言葉を覚えて使っていくのが凄い。物語なんだからってのもあるけれど。身の回りの物を指差して教えてもらってくのがいい。

コレはなんてゆーの?って質問するところや、言葉がまだ通じないときに身振り手振りで相手が何を伝えたいのか、を、お互いが汲み取ろうとしてるところとか、すごくいい。

映画「おろしや国酔夢譚」を観たときも、漂流先で、初めにやったことは「コレはなんだ?」って指差して聞いてどんどん言葉覚えていくことだったな。と思いだした。

 

ガリバー旅行記を読むきっかけは、単に休日だったし本読みたかったからなんだけれど、そこにたどり着くまでを遡っていくと、

ガリバー旅行記よむ←船が難破してたどり着く作品←ロビンソンクルーソー漂流記、スイスのロビンソンについて調べてた←昔やってたテレビアニメ、不思議の島のフローネの内容を調べてた←不思議の島のフローネのオープニングの曲が、数日間頭の中でエンドレスで流れる←昔やってたテレビアニメ、小公女セーラのあらすじを全話調べてた←小公女セーラーのオープニングの曲が「まだ踏ん張ってくわ」って感じの歌詞で自分の気持ちが沈みかけてたとき思いだした←思う方向になかなか行けない、もどかしさや理不尽さにモヤモヤするので、昔のテレビアニメ、母をたずねて三千里のオープニングの曲を頭の中でエンドレスで流しながら日々励む(子供のマルコがあんなに頑張ってるんだから自分も踏ん張らな。と思ってた)

 

こんな感じで、日々モヤモヤしたり疲れてくると、なんとなしに踏ん張りソングを頭の中でエンドレスで流す。

子供のとき、毎週日曜の夜、観てたアニメが始まるときは、弟と一緒に唄いながら観てたな。

宇宙刑事ギャバンのオープニングの曲とかガンバの冒険の曲も元気が出てくる。

当時は、たいして意味も追わずにフツーに楽しく歌ってたけれど、自分が大人になったいま、スッと浮かぶってのが面白いな。

 

 

 

つるん。

呼吸法を練習するようになってから、ときどき、職場などで自分の座ってる席の近くを通ったり、一定の範囲内に留まってる人がいると、自分の体の表面を「つるん。」と触られたような感覚になる事がある。

空気の流れかなんかの関係で、フワッと当たるにしては、質感に重みを感じる。ヌル〜。とまではいかない程度の生き物特有の気配。

人によっては何ともない事もあるし、だからと言って毎回決まった人とだけそのようになる訳でもない。

例えば自分が担当教育している新人さんとか、上司とか、ちょっと元気なさそうとか体調が優れない同僚だとかの「そのとき気にかけてる人」の時が多いかもしれない。

 

このときに、「つるん。」から更に意識をむけていくと、その人たちの体調やら感情やらの状態が自分の中にトレースされだす。

大抵の場合、それらは「緊張してる」とか「不満、怒ってる」とか「頭や肩や腰が痛い」とか「考えすぎて混乱してる」とか分かりやすい違和感として現れる。

 

今の今まで、フツーに静かに仕事していた自分の体内と思考が、そこにフォーカスしだして、相手の状態と同じようになってしまい過ぎると、自分がしていた仕事にも差し支えそうになる。もちろん、トンレンや気配をしる練習にはなるけれど、あまり喜ばしい状態ではない。

 

呼吸法を練習するようになった最初の頃は、相手の状態に翻弄されるとゆーか、そのことばかり気になってしまっていた。

流石にコレはいかん。と思って、相手にどれくらいの割合で意識をフォーカスすれば問題ないか。とか、どれくらい呼吸法で自分の氣を発電して纏っていれば影響を受けないか?などの模索が始まった。

気力や循環が大きくなれば、そこに相手の氣(想いや体調などの情報)も多めに乗っかってくるので、適度に無視することと、関心を寄せることのバランスを考えるようになった。

模索し始めてからだいたい2週間くらいで「つるん。」と触れるような感覚はあっても、自分の意志で関心を寄せるか無視するかを調整できるようになった。

 

今でも自分の近くや一定の範囲内に誰かが入ってきたときには「つるん。」とした体感は起きる。

起きるけれど、ただそれだけって感じのこと。

自分の横を通り過ぎた人がいたなー。ってだけのことになってる。

 

コレらの経験から、「生き物の気配の質感はこんな感じなんだなぁ。」とか「呼吸法で発電して自分が氣で満ちていると体感も分かりやすいんだなぁ。」とか「意識をフォーカスする、しないって、こんな感じでやるんだなぁ。」だとか色んな事が分かってきた。

なにより、見た目ではよく分からない「相手の状態」について情報が増えた事で、対応のバリエーションが増えたことが嬉しかった。

 

過度に気を遣ってくたびれることもないし、雑に放置してあとあと面倒に巻き込まれることもない。ちょうどいい加減を自分で調整するようになってからは、へんに装ったりする自分が少なくなったと思う。ほんと楽だわー。

 

 

 

 

 

 

 

 

成長を喜ぶ氣

・「先週、嬉しい事があったんだけど、聴いてもらえますか?」と、昼ごはん休憩のときに隣に座ってる同僚が声をかけてきた。

おお、是非に。と、返事した。

 

同僚の息子さん(小学六年生)のクラスで、親御さん達を招いて、発表会のような催事が行われたそうだ。会が終わるとき、息子さんが親御さん達に宛てた手紙を読む係だったと。

息子さんの性格からして、人前で何かをやるとか話すことはしないし、そのような係になっていたことも知らなかったそうなので「わぁー!まさかこの子がこんなこと出来るようになってたなんて。しっかり育ってくれたんだなぁ。」とびっくりしたし、そのことが本当に嬉しかった。と同僚は話してくれた。

 

いい話じゃあないですか!と、ご飯食べながら自分も嬉しくなった。

「こーゆー内容をね、周りのお母さん達に話すと、自慢。って思われることもあってね。でもね、自慢したいんじゃなくてね、本当にそーゆーのが嬉しかっただけなんだ。だから、ゆうがたヨクサルさんになら話せるなぁと思って。聴いてくれてありがとう。」と、お礼まで言われた。いいね、嬉しいね。誇らしいよね。

子供の成長を見る機会があって、それを嬉しく感じて、その想いを遠慮せずに話して貰えるのは、なんかありがたいなぁ。

なにより、その話をしてくれたときの同僚の氣は素直で気持ちのいい、氣の循環のトンレンだった。

 

・呼吸法の練習で、発電した氣をお腹に降ろす退陰符をする。

ゆっくり吸ってー、ゆっくり吐くことを繰り返しやる。ゆっくり吐くときは、胴体内の気感は縦に芯があって、どちらかとゆーと反時計回りの回転を感じてる。自分の場合、反時計回りに感じながら降ろすほうがやりやすいのだ。

立ち上げる時や、発電中のお腹の気感は、どちらかとゆーと時計回りだ。でもこの場合は回転を意識してやってるわけではない。勝手にそーなってるとゆーか

回転する方向に、上昇と下降で違いがあるのかなぁ?それとも単に、自分の感じ方の癖なのかなぁ。